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岸田劉生〈後編〉

アーティスト解体新書

No.030

古今東西の芸術から学び、「写実」と「内なる美」とのバランスを揺らがせながら、意欲的に作品を生み出していった岸田劉生。後編では、情熱と狂気、深い愛情がせめぎ合う岸田の胸の内をのぞいてみましょう。


Illustration:豊島宙
Text:浅野靖菜

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2019.10.09

岸田劉生(1891-1929)

東京市京橋区銀座で、ジャーナリスト・実業家の岸田吟香(ぎんこう)の四男(14人兄弟の9番目)として生まれる。38歳の短い生涯のなかで、重厚な色彩と細密描写で神妙な雰囲気を漂わせる、独自の表現を模索していった。重要文化財《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915)や麗子像の数々は、美術の教科書にもよく掲載される代表作だ。


激昂と愛情

岸田の人格形成には、父・吟香(ぎんこう)のパイオニア精神と、15歳でキリスト教の洗礼を受けて以来の信仰心が関係しているだろう。岸田は画風を大成するたびに新たな美と出会い、人間の内に或る神(=内なる美)を追求し続けた。その情熱は時に「制作が捗らない、うまくいかない」とかんしゃくを起こすなど、自身でも御しがたいものがあったようだ。一方で、病気療養のため2週間ほど離れて暮らしていた妻への手紙に「お前がゐないとどうも淋しい」と綴るなど、愛情深い一面もあった。

岸田の首狩り

研究会時代、友人の父親に肖像画を描いたところ、生き生きと本人を写していると評判を呼んだことがあった。1912年、「自己の芸術」に目覚めた岸田は、「一生の中にどうかして、人類の肖像を描きたい」とも考えた。そこで、立ち上げに参加したヒユウザン会や草土社の面々、隣人の文学青年といった友人知人をモデルに肖像画を描きはじめ、1915年頃にはニキビやシワまでも詳細に描きこむ写実的な画風へと展開された。当初は「岸田の首狩り」「千人斬り」などと言われ、その後は特に自画像を盛んに制作した。1913~14年には自画像だけで30点にのぼるという。

変容するミューズ・麗子

麗子が初めて油彩画のモデルを務めた作品は、デューラーに倣った《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918)だ。以降、岸田は理想の表現を麗子像に結実させていく。達観した微笑みの麗子、同じ画中に描かれた二人の麗子、怪しげな笑みを浮かべる「でろり」の麗子。最後の麗子像は、明るい色彩の大首絵風の作品だ。岸田は麗子を「デコちゃん」と呼んで可愛がり、麗子も画家としての父を尊敬し、のちに自身も絵を描くようになる。早いうちから画才の片鱗をみせ、自分と同じ美術鑑賞の変遷をたどる麗子に、自分自身を見た岸田。この父娘の深い愛情と相互理解が、油彩、水彩を含めて100点以上の麗子像を生み出したのだろう。

<完>

協力:東京ステーションギャラリー

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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