台本と俳優たち、そして演出家
樫山 『ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク』は、登場人物の名前や設定のそこここに、チェーホフの『かもめ』『桜の園』『ワーニャ叔父さん』『三人姉妹』のエッセンスをちりばめた現代劇。コメディでありながら、哀愁も交えて描かれています。
でも最初にこの台本を読んだときの感想は「とってもやりたくない役だなあ」と(笑)。そもそも女優が女優の役をやること自体も嫌なのに、その女優像が……。言うことやることあけすけで「女優がこうだと思われると困るなあ」っていうことがありましたね。
千葉 僕は最初「面白くないなあ」と思いました(笑)。どこが面白くないかって言われると困るんですけど、やっぱりまず、チェーホフ劇には民藝の代表作と言われるものがたくさんあるわけで、どこかで襟を正してしまうところがあるんですね。そのチェーホフをベースにしたコメディだという。読んでみると、その喜劇の要素というのも「何が面白いんだ?」っていうところがありすぎちゃってね。せっかく料理してもらったのに味がわからないような、そんな印象だったんです。でもこれから稽古していくなかで、少しずついろいろな味も出てくるんだろうという予感はしますけれどもね。
丹野 二人ともひどいなあ。宣伝にならないじゃない(笑)。
樫山文枝
樫山 ただその一方で「このマーシャって、普段もそうなのかな。実家へ帰ってきた時、きょうだいたちの前でだけ、あえてどぎつい喋り方になっているのかも。だとしたらそれはなぜ?」と、想像が巡り始めたのね。まだそこはいろいろ考え中なんですが。読んだ時はとにかく「なんか……すごい女性だなあ」と思ったけど、自分で台詞を口にして、何度も何度も読んでいくうちに「おかしな人だなあ」って思えてきました。愚かしいんだけどその愚かさがおかしく、そのうち可哀想になったり滑稽になったり、愛しさも出てきた。
全肯定の役では絶対ない。だけど最後には「生きるってこういうことかな」と、観た人にちょっと感じてもらえればいいなと思える、そんな役です。
丹野 よかった(笑)。
千葉 うちの奥さんはね、最後の場面の僕が演じるワーニャの長台詞があるでしょ、あれを読んでいたら「涙が出てきた」って。
丹野 共感の涙でしょうね。
千葉 そうかもしれません。
樫山 あのワーニャの長台詞で、現代に生きる人々への警鐘とか、常々思っていることを一気に語らせますからね。
丹野 台本を最初に見たとき、千葉さんが「何かの間違いだ」って言っていました。こんなに長い台詞があるわけない、本当は他の人の台詞が入っているにもかかわらず、私が間違えて全部ワーニャの長台詞にしたって(笑)。そのくらいものすごく長いんですよ。ページをまたいで、またいで、またまたぐくらいの。でもあれは、やりこなせたら、千葉さん見事な見せ場になるよね。
樫山 気候変動とか、それこそ今のコロナ禍にも重なるところもありますし。チェーホフがもともともっていた社会風刺の精神を、現代にまた移植しているというような、そんな戯曲ですね。
アドリブは厳禁
千葉茂則
千葉 台本を読み、稽古、リハーサル、本番へと自身をその役柄に仕上げていくまでのアプローチは各劇団それぞれですが、うちの劇団はその一つとして創立以来、「アドリブ禁止」を定めています。基本的に台本が中心です。
舞台の解釈や方向性について、みんなで膝突き合わせてじっくり話し合うということはありませんが、時々の稽古のなかで間合いやニュアンスを発見していって、そこで生まれる疑問に対してのやりとりはあります。が、アドリブはしない。
丹野 アドリブは一切ありませんね、うちの劇団は。台本に一番の尊厳があるんです。台本を読み込んだ末に、ここはこうでなくてはならないということを共有し、仕上げて、40日なら40日稽古します。
樫山 それは本当に伝統ですよね。心血を注いで書いた作家に最大の敬意を払って、台詞は一言一句変えない。年を取るとなかなかにそれが大変ですけれど、でも努力して体に入れています。
丹野 即興的な要素はほとんどないんですが、役者さんを観ていると、演じているなかで、自分でも思ってもみなかったような感情が生まれる時があるみたいです。千葉さんそうですよね。
千葉 そうそう。何かやっているうちに「あっ」て。
丹野 台本に忠実に同じことをやっているはずなんだけど、いつもと違う感情が生まれてしまう。「こういう気持ちになったんだけれども、そうすると次はどうしたらいいのか」みたいな、そういう混乱からの新たな創造ということが役者さんには起きるようなんですね。そんなこんなで40日という長い稽古のなかをあっちに行ったりこっちに行ったり迷いながら、「きっとこれが一番いい道なんだ」というのを探す。それがお芝居を作るということなんじゃないかと思います。
チェーホフを知らない人も楽しめる
丹野郁弓
丹野 『ワーニャ、ソーニャ〜』の見どころはまず、中高年の抱えているモヤモヤみたいなものですね。ワーニャ、ソーニャ、マーシャそれぞれに鬱憤があり、それはもう本当にそれぞれなんですね。人生の黄昏に向かう世代が観ると「わかるわかるー。そうなんだよね、普段はやり過ごしてしまうけど、そこが生きづらいと思っていたところなんだ」っていう感じで気づかせてくれるっていうのかな。そういう意味でも面白い芝居だと思います。
樫山 チェーホフの憂鬱さやまどろっこしさが嫌いな人は多いですが、今回の作品はチェーホフのオマージュではあるけれど、そういうところがない。それでいて「この作家、チェーホフが好きなんだな」ってわかる。この芝居を観たことがきっかけで、チェーホフを読んでみようかなと思われる人もいるかもしれません。
チェーホフが好きな人も、チェーホフを一切知らない人も、チェーホフを嫌いな人も観て楽しめて、劇場に来る楽しさを味わっていただける作品になるんじゃないかな。コロナ禍を吹き飛ばすような元気をお届けしたいと思います。
千葉 ワーニャという、現代社会のスピードや、さまざまな新技術にうまく溶け込めない人物を、まさにその世代の当事者として非常に親近感を持ちますし、そんな人たちでもやっぱり社会の一員であって、生きているんだということをね、気分良くとまでは行かないでしょうけど、できればちゃんと見てってねって思います。実際に僕自身、そういうものに大変弱いですからね。やっと携帯を持っても、電話とメールが精一杯ですし。あらためて自分のコンプレックスも込めてですけれど「そういう世代のことも忘れないでね」と。声高にじゃないですけれど。
丹野 励ましたいですよね。まあ後は、「どう弾んだ芝居にできるかな」ってところが、稽古のしどころです。
演劇とアフターコロナの時代
丹野 私は、この作品は、2013年のアメリカでの上演を見て以来、人と人の繋がりが頼りなくなっている現代社会を問い直す作品だと感じていましたが、ここにきてのコロナ禍で、いっそうその思いが強まっています。
コロナ禍って、今のただでさえ薄い人々の関係を、さらに希薄にするパンデミックじゃないですか。もしこの時代がまだまだ続くとしたら、そこで演劇がどう成立していくのかは誰にもわからない。でも、ソーシャルディスタンスを守った芝居、ガイドラインに沿った芝居、「それはもう演劇の本質から外れてしまうのでは」って、私なんかは思うんです。
テレビやPCで舞台中継を見ても、本当の舞台と全然違う感触でね。それは映像でしかなくて、生の、ライブの演劇ではないですよ。それこそ、ときには役者の汗が客席に飛んでくるような距離で、演じている人の熱に当たりたい。そういうのが演劇だと思うんです。
千葉 本当にその通りですよね。接近して、泣いたり喚いたり転がったり、人と人との魂の触れ合いが舞台で白熱する仕事ですもんね。
丹野 コロナの時代に新しい演劇を提案っていうところまでは、今は私はちょっと行かないですね。やっぱりコロナが収束した時に、その時にこそ再び、生の演劇ならではの熱をお届けしたいと思っています。それこそが演劇だろうと思います。
新型コロナウイルスって、いろんな芸術の分野があるなかでも演劇には一番影響が大きい。だって、生の人間対人間の熱みたいなものの結果が演劇であるならば、それがいけないっていうんですもの。演劇はまず最初にダメじゃないですか。
千葉 今の世の中は、演劇と真逆の方向に行ってしまっているので、本当に心配です。
樫山 それは私もつくづく思います。芝居って映画とかテレビとは違いますから。生身の人間が舞台で一生懸命やっている姿だからこそ、見たくなるものですよね。
コロナ禍の収束はまだまだ先が見えないですけれど、特に若い人で演劇をやっている人には「なんとかお互い、乗り越えていきましょう」と言いたいです。こんなに豊かに、自分の人生観を変えてくれたり、刺激を与えてくれたり、生きるというのはどういうことかを学んだりできる世界は、ほかにないと思いますから。
チェーホフは『かもめ』で女優のニーナ に「大切なのは名誉でもなければ成功でもなく(中略)ただ一つ、耐え忍ぶ力」と言わせています。お芝居って、どんな困難があっても、続けるに値する素晴らしい仕事です。コロナで参りそうになっても、なんとか工夫を重ねて続けられるような状態にもっていってもらえればと願っています。
そして若い人たちには自分と同じ世代だけにじゃなく、視野を広く向けて、いろいろなお芝居を観て勉強していただきたい。そしてときには中高年世代が作る演劇も観にきていただいてね(笑)。お互い、いい演劇をつくっていきたいですね。
〈完〉
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