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東京の静寂を探しに
No.004
旧芝離宮恩賜庭園〈後編〉

2020.11.11

旧芝離宮恩賜庭園。池泉回遊式庭園の代表的な庭園のひとつ。写真は櫛引典久『東京旧庭』(2020年、玄光社)より 旧芝離宮恩賜庭園。池泉回遊式庭園の代表的な庭園のひとつ。写真は櫛引典久『東京旧庭』(2020年、玄光社)より

旧芝離宮恩賜庭園は海に面した立地を活かして、かつては海水を引き込んだ潮入の池と東京湾を借景にした、潮の香り漂う庭園でした。現在、東に竹芝桟橋、西に増上寺と東京タワーのそびえるこの地はどのような場所だったのでしょうか。後編では旧芝離宮を有する芝地区の来歴を紹介します。

お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)
協力:東京都公園協会

坂道が漂わせる水の気配

旧芝離宮恩賜庭園(以降、旧芝離宮)の最寄駅は都営地下鉄線大門駅かJR浜松町駅です。実は港区で一番低い土地がJR浜松町駅のガード下で、海抜約0.8mしかありません。JR浜松町駅から第一京浜(国道15号線)、往時の旧東海道を越えて増上寺のほうに歩いて行く途中の交差点近くの海抜は3.1mとなっています。つまり海に向かってゆっくりと下り坂になっているのですね。
一見平坦に見える土地に現れる坂道は、往々にして自然地形の名残であることが多いです。今は埋め立てられていても、かつてそこには海や川があった。古地図と自治体で発行しているハザードマップを重ね合わせると、かつて海や川だった場所は、ハザードマップでも水が出やすい場所として認識されています。旧芝離宮から東側、現在の竹芝桟橋や日の出埠頭があるあたりが、かつては海だった。旧芝離宮が海に面した場所であったことがわかります。

現在の地図と国土地理院「明治時代における水辺」の地図を重ね合わせたもの 出典:国土地理院 現在の地図と国土地理院「明治時代における水辺」の地図を重ね合わせたもの 出典:国土地理院

旧芝離宮恩賜庭園の池は、かつては海水を引き入れた「潮入の池」だった。現在は海水の取り入れはなくなり、淡水の池となっている 『東京旧庭』より 旧芝離宮恩賜庭園の池は、かつては海水を引き入れた「潮入の池」だった。現在は海水の取り入れはなくなり、淡水の池となっている
『東京旧庭』より

東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さん。中国の名勝を模した西湖の堤は、日本庭園によく造られる要素の一つ 東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さん。中国の名勝を模した西湖の堤は、日本庭園によく造られる要素の一つ

江戸前の漁場と行楽のまち

旧芝離宮はその名のとおり、芝という地域にあります。芝は中世からの地名で、もとは竹柴の郷、略して芝と称したと、江戸後期の地誌『江戸名所図会』にあります。その範囲は、現在のJR新橋駅からJR田町駅の辺りまでです。JR新橋駅の近くに芝口御門跡という史跡が残っており、その辺りが芝の入口になります。そして、その辺り一帯の海を芝浦と呼んでいました。
江戸時代の芝浦は、海苔だけでなく魚も海老も貝も漁れる江戸有数の漁場として大変人気があり、多くの漁村が栄えていた場所でもあったそうです。特産である海老は「芝海老」と呼ばれ、「江戸前」という言葉もこの近辺で獲れた魚を称して使われました。最終的には葛西の辺りまで江戸前に含まれたようですが、これは江戸に魚を納める漁場の範囲が広がったことに起因します。銚子で獲れた外房の魚も江戸に運ばれていましたが、こちらは江戸前とは言わないので、江戸の前の海で取れたものに使われていたようです。明治以降も、芝浦は都会に近い海辺として人気があり、春の潮干狩り、夏の避暑と海のレジャーに出かける人が多かったそうです。
また、意外に起伏の多い地形も芝地域の大きな特徴です。先ほど、JR浜松町駅の前の道を第一京浜方面に進むとゆるい上り坂になっているとお話ししました。その先には駅名としても残っている増上寺の大門があり、さらに三解脱門(三門)をくぐると増上寺です。増上寺から東京タワーに行く時も上り坂になります。この高台から海を眺めるというのが大変人気になって、明治時代にはその眺望を売りにした高級料亭ができ、食事処兼社交場として親しまれたようです。その料亭の名が「紅葉館」で、芝生まれの小説家・尾崎紅葉の名前の由来にもなっています。今でももみじ谷という場所がありますが、楓がたくさん植えられていて秋にはとても綺麗です。少し高いところから海を眺めると、手前に白い帆を掲げた船が、遠くには房総半島が見え、本当に絵に描いたような素敵な風景だったようです。
また、増上寺には江戸三大名鐘の一つに数えられる大梵鐘(だいぼんしょう)があるのですが、その音が房総半島まで聞こえたのでは、と詠んだ当時の川柳もあります。海や川が身近だった江戸時代では、房総に対する距離感は今とは違っていたのかもしれません。

《江戸切絵図 芝愛宕下絵図》景山致恭ほか編、尾張屋清七、1849〜1862(嘉永2〜文久2)年 出典:国土地理院 《江戸切絵図 芝愛宕下絵図》景山致恭ほか編、尾張屋清七、1849〜1862(嘉永2〜文久2)年 出典:国土地理院

新しく海沿いの土地をつくる

こうした地域の歴史は、古地図を見るとよくわかります。例えば、1850年代の切絵図(きりえず)には、それぞれの施設、道路の位置関係が概ね正しく記載されています。こうした切絵図を持って街を歩こうという催しも盛んに行われています。
この地図に紀伊殿(きいどの)とあるのが、現在、旧芝離宮のある場所です。旧芝離宮の初代は小田原藩主で老中を務めた大久保忠朝ですが、この切絵図がつくられた時には紀伊藩の芝御屋敷になっていました。現在のJR浜松町駅のあたりが大久保加賀守の領地となっていますから、隣に移っていることがわかります。
この地図を見ると、紀伊殿の東側は全部海になっています。この辺りは、大名屋敷を建設するために埋め立てられた土地なのです。江戸時代、旧芝離宮や浜離宮恩賜庭園同様に、多くの土地が埋め立てられました。皇居の南、日比谷公園のあたりもその一つで、江戸城から魚を獲っている様子を見ることができたと伝えられています。北の駿河台の台地を切り崩して埋め立て用の土に使用し、少しずつ海側に向けて土地を拡張していったのです。「築いた地」と書く築地も同様です。
重機もない時代に人力でこれだけの土地を埋め立てられたのは、江戸時代が平和な時代だった証だと思います。戦争ばかりしていたら何代にも渡ってこのような大事業は成し遂げられなかったでしょう。江戸城自体も内側の輪郭と外側の輪郭をつくるのに約50年かかっていますから、大規模な土木工事は江戸時代ならではの象徴的な出来事だったと言えます。

このように旧芝離宮のある芝という地域は、海辺に面した低地と坂道を上がっていった高台がある起伏のある土地でした。その間に東海道を擁する交通の要所でもあり、眺めもよく漁業も盛んな場所であったようです。そして、長く平和が続いた江戸時代に海辺の低地は埋め立てられ、旧芝離宮を含む大名屋敷、大名庭園が軒を連ねる所となったのです。

園の東に位置する四阿(あずまや)。ハゼの紅葉は11月頃が見ごろ 『東京旧庭』より 園の東に位置する四阿(あずまや)。ハゼの紅葉は11月頃が見ごろ
『東京旧庭』より

〈完〉

構成:浅野靖菜
Photo:櫛引典久

旧芝離宮恩賜庭園

住所:東京都港区海岸一丁目(1-4-1)
開園時間9:00-17:00(入園は16:30まで)
休園日:年末年始
入園料:一般150円、65歳以上70円
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index029.html

櫛引典久(くしびき・のりひさ)

写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。

田中実穂(たなか・みほ)

東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。
講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/ をご覧ください。

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