今、落語ブームの影響もあって、講談の世界も元気です。一時期減っていた講談師も少し増えて、東京は60名になります。講談の楽しみ方は、自分のひいきの芸人をつくるところから広がります。講談師はお客様をとても大切にします。独演会もあり、直接話をする機会もあって、前座からだんだん上手になって、真打になる様子を長く応援していただくというおつきあいが生まれるのです。笑ったり、拍手したり、声をかけて一緒に参加する。観客も芸人を育てているんだという意識を持てる点が、日本の伝統芸である講談の魅力だと思います。
私は、女優の修行中、日舞を習っていたときに「三手の紅」といわれるほど、覚えが悪かったんです。一度に3つの手しか覚えられませんでした。でも生来のくやしがりで、できないことは絶対に克服してやろうという闘志がありました。ですから、自分は努力の人なんだと思って頑張りましたね。その結果、お弟子さんの中では最初に名取になることができました。
 神田さんは今村昌平監督の映画「女衒 ZEGEN」に出演している
女優をめざしていたときは、一の宮はじめ先生にジャズダンスを習っていました。日舞同様、努力の人ですから1週間に6回、レッスンに通っていました。だんだん前列で踊れるようになったときのことでした。先生から、「キミは生まれもってのスターの星を持っていないけど、それでもこの道でやるの?」といわれたときはショックでした。けれど、あとになって本当に大事なことをいわれたと思います。確かにその通りだったと気づき、ある意味自分の中で覚悟ができました。一の宮先生は私に覚悟をさせるために、あえて厳しい言葉をくださった。今では人生の財産になったと感謝しています。
二代目神田山陽師匠と出合ったのは、女優としても少しずつ仕事をいただけるようになった時期でした。私は声が大きいので、講談に向いているといって紹介してくれる人がいたのです。師匠が女流講談師を育てたいと考えていた時期でもありました。「組織は女性をうまく使っていかないと、うまくいかなくなる」という師匠でしたから、私のことを、「停滞する講談界に一石を投じるための池に投げる石だ」といっていました。だから、最初の5年は女優もやりながら講談の活動をすることを許されたわけですが、師匠が体調を崩した時期に、このまま中途半端じゃいけないと気づいたのです。師匠の講談のネタは200以上あるんですが、まだ私は30くらいの話しか教えてもらっていませんでした。しかもそれは、すべて師匠の頭の中にあるものです。それから、師匠の話をテープにとって、原稿に起こして、といった作業をやらせてもらったことがとても勉強になりました。
 今でも日舞の稽古に励んでいる神田さん
師匠は大阪の書籍の取次ぎをしていた「大阪屋」という大店の息子さんで、お金持ちでした。寄席に出資したり、好きなダンスの本を出版したりで、仲間内からは旦那芸だといわれていました。師匠は「指す・舞う・語る」の人でした。「語る」は講談ですが、指すとは将棋のこと。大山名人とNHKの将棋講座で解説することもありました。「舞う」はダンス。師範の上のクラウンという資格を持っていて、ダンスホールも経営していました。
師匠は、本当に褒め上手な方で、いつも私のことを「君は天才だ」といって、ほめてくれました。私は自分で努力の人だと思っていたけど、そういわれれば悪い気はしません。もっと頑張ろうと思って、陰で稽古することができたのです。後年、「君が裏でどれだけ努力したかはわかってるよ」といってくれたときは、本当に嬉しかったですね。
※次回は・・・ 神田さんの紅流講談についてご紹介します。[1月17日(木)アップ予定] |