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諏訪 敦 インタビュー

アーティストが語る 私のターニング・ポイント

No.001

このインタビューシリーズでは、第一線で活躍しているアーティストに「キャリアの転機」についてお話をうかがいます。若い頃から現在に至るまで、どんな心境や作品の変化があったのか、現在の活動とともに語っていただきます。第1回目は、府中市美術館で個展「眼窩裏の火事」(~2023年2月26日)が開催されている、諏訪敦(すわ・あつし)さんに取材しました。


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2023.01.23

漠然と始めたアーティスト活動

ゆくゆくは美術家となり、ずっと絵画を描き続けていきたいと諏訪敦がぼんやりと考え始めたのは、彼が武蔵野美術大学に通う学生の頃だった。「実際に発表を始めたのは、ちょうどバブルが崩壊したあたりですね」と諏訪は振り返る。

──諏訪さんが画家を志したのはいつ頃のことですか?

諏訪 現実的に考えたのは社会に出る前後のことだと思いますが、画家にとって最悪の状況でした。たとえば私の活動初期に美術雑誌に取り上げられたときの特集が、「バブルの焼け跡、荒野に咲いた花」みたいな内容で(笑)。現在なら卒業して、すぐにギャラリーと契約というのもリアリティのある話題で、奨学金や若手支援の事業も充実していますが、当時は壊滅的でした。

──いわば漠然とアーティスト活動をスタートさせたわけですね。

諏訪 そうですね。とりあえず絵の内容に悩む以前に、描き続けられる環境をつくる必要がありました。コンセプトやら自分の作家像を客観的に考えるようになったのは、ある程度活動を続け、幼稚な思考で紡ぎ出した絵をカネに替える苦さも知った後の話ですね。

──そして1994年に文化庁派遣芸術家在外研修員に選出されました。

諏訪 ええ、2年間スペインのマドリードで過ごしました。

《father》1996年 パネルに油彩、テンペラ 122.6×200cm 佐藤美術館寄託

──諏訪さんのキャリアの転機となったきっかけなどがあれば教えてください。

諏訪 2011年に意思を持って業界内における立ち位置を変えるように具体的な行動を始めました。まず現在も仕事を共にしている成山画廊で初めて個展を開催しました。この画廊は少数精鋭といいますか、現代美術業界で異様な存在感を放っていて惹かれたわけです。そうしなければならなかった理由は、日本の美術業界には画壇系と現代美術系という棲み分けがあって……。現在はもうちょっと複雑化していますが、まあざっくりとそんなところです。商いの習慣も違う。

私は作家活動を始めた当初、気付けば画壇系の画家にカテゴライズされていました。つまり選択を誤っていたのです。断っておきますが画壇系がダメだといっているわけではありませんよ。間抜けな話ですが当時の私には無自覚なところがあって、自分の指向性と画壇のそれが擦り合わせられない部分があることを、走り出してから気付いてしまった。そこで、2011年の個展を契機に腹をくくって現代美術系へ軌道修正を試み、前代未聞ですが作家自身の意志で活動領域を移したのです。怖かった……、周囲の人たちが大きく変化しますし、市場性が壊れる可能性もあったわけですから。

そのタイミングで幸運にも、NHK『日曜美術館』で「記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家~」と題された、私が作品を制作する模様を長期密着取材したドキュンタリーが放映されました。この番組は一般層にも届くような反響がありました。それから、作品集『どうせなにもみえない 諏訪敦絵画作品集』(求龍堂)の刊行も続きました。

──直感に頼るほうですか?

諏訪 私は絵描きとして戦略的と思われているようですが、本来は場当たり的で適当な性格です。ただ、状況がチャンスと一致した時は嗅覚といいますか、感覚を優先していた気がします。いろいろ考えに考え抜きますが、結局は直感をとることが多い。

──作家活動に加えて、諏訪さんには教員としての一面もありますね。

諏訪 はい。2018年に母校の武蔵野美術大学造形学部油絵学科に就任しました。

──大学で学生とはどう接していますか?

諏訪 学生たちからテクニカルなことやロジカルなことに関する質問を受けることがあります。そのあたりは定量的な答えが用意できるので的確に応じられていると思います。がっかりさせたくないので、むしろ勉強する量は学生時代より増えますよね。みんな人に教える立場を経験してみたらいいと思います(笑)。

その一方で、絵の内容についてとか指向性のことは、安易に手を突っ込まないことにしています。学生たちはそれぞれが研究者で、幼稚にみえても自醸した流儀をもっています。どんなに現時点で間違っているように見えても、あるいは回り道に感じても、私の価値観で歪めたくないのです。ですから環境を整えることの方が私には重要に思えていて、教授なんて一種の庭師みたいなものでしょうか。

視覚のいかがわしさ

府中市美術館で開催中の個展「眼窩裏の火事」は三部構成になっている。「第1章 棄民」は亡き父の手記をもとに旧満州(現中国東北部)に自ら足を運んで取材を重ねたうえで制作した絵画シリーズである。「第2章 静物画について」は写実絵画を考察した作品群が、「第3章 わたしたちはふたたびであう」ではさまざまな人物画が集められている。

──「眼窩裏の火事」というタイトルをつけた背景を教えてください。

諏訪 展覧会のタイトルは重要だと考えています。今回の府中市美術館の企画展は6年ぶりの個展ですから、何かいい言葉はないかとずっと考えていました。私はアイデアを絞り出さなければ出ないほうで、天から降ってくることなんてありえない。『眼窩裏の火事』は考え抜いて、カスカスの、しょうもない言葉しか出てこなくなった後に、やっと出てきた感じです。これは「美への感受性が揺るがされている」という意味を込めています。

私には「閃輝暗点(せんきあんてん)」という脳の血流から視覚異常が引き起こされることがあります。確実に感じている強烈な光に実体は無く、視界の隅は燃えるようなのですが、焦点を合わせられずその状況の観察が出来ないのです。それから、「裏」という言葉も使いたかった。視覚のいかがわしさの裏に何があるのか知りたいという思いでしょうか。

さらには関西大学の石津智大教授による研究の影響もありました。それは脳が美を感じると活動強度が増す部分をfMRI(磁気共鳴機能画像法)で特定したという驚くべき内容でした。そこが私たちに美的体験をもたらしているのだと。その部位は眉間の奥、眼窩上部の裏側にある「内側眼窩前頭皮質」というそうです。そこで最初の展覧会タイトルのアイデアは「目の中の火事」だったのですが、言葉を読み替えて、英文タイトルも“Fire in the Medial Orbito-Frontal Cortex”とし、医学用語に置き換えることにしました。

《目の中の火事》2020年 白亜地パネルに油彩 27.3×45.5cm 東屋蔵

──「火事」に関しては、どのような経緯があったのでしょうか?

諏訪 閃輝暗点という症状は熱を感じない冷たい炎がある感じですが、それがどういう事情で自分に起きるのか、じつは怖くて調べていません。脳の血流に関係しているということしか知りません。この症状を自覚し始めたのは、父親が亡くなったあたりからです。その頃は閃輝暗点を絵で再現しようとは思わず、父親の遺体を描きながら、目印として黒い点を描き入れることから始めたわけです。絵の演出にとどめず、自分の身体的な経験を絵画の中に記録できないかと考えていました。

── 三部構成は諏訪さんの意向によるものなのでしょうか?

諏訪 美術館の展示室が三つだからです。とはいえ、それぞれの部屋をつなぐ通奏低音のような要素を実装しています。第3章は人物画を集めていますが、大野一雄・慶人親子……「Ohnos」を描いたシリーズもそこに置かれています。彼らを長く描いたのは、1994~96年にかけて、文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペイン・マドリードに滞在する中で、日本人と西洋人の身体性の違いを実感したことがきっかけで、日本人の舞踏家たちが、現地でも注目を集めていることに自ずと関心が向きました。そこで土方巽と並んで暗黒舞踏(BUTOH)の創始に関わったダンサーとして知られていた、大野一雄・慶人親子に会わなければならないと考えたわけです。

府中市美術館での展示風景より
左:《大野一雄》2008年 キャンバスに油彩、テンペラ 120×194cm 作家蔵
右:《Mimesis》2022年 キャンバス、パネルに油彩 259×162cm 作家蔵

諏訪 東洋と西洋の違いは絵画領域にもつきまとう問題です。明治期に日本人たちは、西洋絵画の技術を近代国家の証として早く導入しなければと、芸術という概念と洋画を強引に接ぎ木しました。そうした歴史を意識していたので、価値の転換を提示しヨーロッパにショックを与え、ダンスの概念を革新した舞踏のオリジネーターたちはやはり偉大だと感じたのです。前述したように画壇へ閉塞感を感じていた時期なので、60年代の、赤瀬川原平や中西夏之、澁澤龍彥らを含む美術家や文学者らが領域を超えて交流をしていた時代の雰囲気に憧れを抱いたというのもありますね。

「Ohnos」を描くシリーズを続けたいとは思いつつも、お二人が亡くなってしまってからは手をつけられずにいました。その頃、2017年でしたか……、永く大野さんのスタッフを務め、現在は「NPO法人ダンスアーカイヴ構想」の代表理事をしている溝端俊夫さんから連絡をいただき、川口隆夫のコンセプチュアル・パフォーマンス公演「大野一雄について」を観るようすすめられました。舞台上で大野一雄が完コピされていることに感動をすると同時に、一方で川口隆夫の個性を強く感じられたことに奇妙な感触を覚えました。自分を殺して他者に憑依する行為は、かえってその人を浮上させるのですね。

そんな折、札幌国際芸術祭2020で「Ohnos」のシリーズ作を出品するようオファーがありました。旧作だけを展示することに抵抗があった私は、新作を押し込むべく考えあぐね、遂に川口隆夫を通して大野一雄を描くことを思いつきました。結局、札幌国際芸術祭2020はパンデミックで中止になってしまいましたので、今回の第3章はそのリベンジでもあったのです。

2020年11月16日、大野一雄舞踏研究所にて川口隆夫を描く諏訪敦
撮影:野村佐紀子

諏訪 また、終わらせられない絵画も多く展示します。たとえば《Solaris》も今回の展示のために加筆しました。もともとは人間の顔のバランスを歪めた顔だったんです。現在の穏やかな表情は、たまたま静止しているという感じです。

ポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》を基準としました。《モナ・リザ》はオマージュが数限りなく存在する表象のリレーのようですよね。代表的なところでも、《モナ・リザ》の制作中を目撃したと思われる、ラファエロ・サンティの《一角獣を抱く貴婦人》(1506年頃)があって、続いてジャン=バティスト・カミーユ・コローの《真珠の女》(1868-70年頃)がある。さらには《モナ・リザ》のオマージュとはいえませんが、バルテュスの《白い部屋着の少女》(1955年)になると体の向きも違うけど、やはり既視感がある。伝言ゲームみたいに伝わったイメージは私の絵にも引き継がせており、その服装は映画「惑星ソラリス」で主人公の自殺した妻、ハリーのそれを元にしています。

この《Solaris》をアイコンみたいに配置したのは、二つの意味があって、私の仕事全般が、死者を召喚する「ソラリスの海」の意味不明な行為を思わせること。もうひとつは《モナ・リザ》に手を入れ続けていたレオナルド・ダ・ヴィンチを暗示することで、絵画制作の永続性を示したかったのです。

左:《Solaris》2017-21年 白亜地パネルに油彩 91.0×60.7cm 作家蔵
右:府中市美術館での展示風景

リアリズムとジャーナリズム

諏訪の研究室には、月岡芳年(つきおか・よしとし)による絵が掲げられている。歌川国芳(うたがわ・くによし)の弟子にあたる錦絵の絵師だ。

──この絵を飾っている理由をお聞かせください。

諏訪 この切腹図《魁題百撰相 小幡助六郎信世》(かいだいひゃくせんそう おばたすけろくろうのぶよ)は「血みどろ絵」「無惨絵」といわれる錦絵の代表作のひとつで、三島由紀夫や芥川龍之介らが偏愛していたことでも知られています。戊辰戦争が起き、現在の上野公園を旧幕府軍と彰義隊が拠点にしていました。それを政府軍が容赦無く殲滅したのが、いわゆる上野戦争です。上野戦争の敗残兵や戦死者は埋葬を禁じられ野晒しにされました。荒唐無稽に思われる「無惨絵」ですが、芳年は現場を取材したといわれています。つまり武者絵の体裁をとって世に出したとはいえ、彼が描きたかったのは一人一人の死でしょう。よりによってこの禍々しい絵を飾って皆さんを迎えた理由は、これは芳年が自醸したリアリズムだけど、真実性に躙り寄る表現者たちの、あくなき情念に思いを馳せるためです。

──諏訪さんは若い頃、今はウクライナで取材の日々を送るジャーナリストの佐藤和孝さんにも影響を受けたそうですね。

諏訪 20歳の頃でしたか、杉並で会うといつも穏やかな様子の人が、戦争という人間の獣性を顕にする現場を取材しているなんて、にわかには信じられませんでした。佐藤さんはほどなく、ビデオ・ジャーナリズムという、撮影機材の小型化とインターネットの普及がもたらした革新的な報道スタイルのパイオニアとして、重要な存在になっていきます。
彼の仕事には、「サラエボの冬──戦火の群像を記録する」(1994年)というNHK-BSで放映されたドキュメンタリーがありますが、これを観たことの影響が大きくて……。それは戦争を俯瞰的に神の視座から情報として伝えたものではありませんでした。爆弾を投下される側の人たち、不条理を訴える異民族間の恋人たちなど、抗えない暴力の下で生きなければならない人たちに寄り添った映像に、僕は圧倒されたのです。

現在、佐藤さんはウクライナ戦争の取材で現地に赴くこともあります。そのようなときは仕事をテレビで確認し、たまに送られてくるLINEで安堵する感じで、まさに隔世の感があります。取材行為を画家とモデルの関係性に置き換えてみたらどうなるだろうかと考え始めたのは、彼と出会ったことが契機になっています。

月岡芳年と佐藤和孝は、実際に戦地に赴いて戦争を目の当たりにした。諏訪敦は旧満州(現中国東北部)に出向いて、この地で何が起きたかを丹念に調べた。人の生と死を描くこと。取材を繰り返して作品化すること。その営みと姿勢は、3人の底のあたりで通じ合うようだ。
(2022年12月7日、武蔵野美術大学研究室にて収録)

Text:新川貴詩
Photo:本多康司(ポートレート)

撮影:中川真人

諏訪 敦
Atsushi Suwa

1967年北海道生まれ。1994年に文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペイン・マドリードに滞在。帰国後、舞踏家の大野一雄・慶人親子を描いたシリーズ作品を制作。制作にあたり、緻密なリサーチを行った上で対象を描くスタイルで、祖父母一家の満州引き揚げの足跡を辿った《棄民》シリーズなどを展開している。成山画廊(東京)、Kwai Fung Hin Art Gallery(香港)など、内外で発表を続けている。2011年NHK『日曜美術館 記憶に辿り着く絵画〜亡き人を描く画家〜』で単独特集、2016年NHKETV特集『忘れられた人々の肖像〜画家・諏訪敦“満州難民”を描く〜』が放送された。2018年武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授に就任。画集に『どうせなにもみえない』『Blue』『眼窩裏の火事』など。

諏訪敦「眼窩裏の火事」
会期=2022年12月17日(土)~2023年2月26日(日)
会場=府中市美術館2階 企画展示室
休館日=月曜日(1月9日は開館)、12月29日(木)~2023年1月3日(火)、1月10日(火)
開館時間=午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
観覧料=一般 700円、高校・大学生 350円、小・中学生 150円
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/

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