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戸谷成雄インタビュー

アーティストが語る 私のターニング・ポイント

No.002

本インタビューシリーズでは、第一線で活躍しているアーティストに「キャリアの転機」について、若い頃から現在に至るまでの心境や作品の変化など、現在の活動とともに語っていただきます。今回は、埼玉県立近代美術館で個展「戸谷成雄 彫刻」(~2023年5月14日)を開催中の、彫刻家の戸谷成雄(とや・しげお)さんです。


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2023.04.28

手前:《森の象の窯の死》1989年 木、灰、アクリル 230×560×62cm 東京都現代美術館蔵
奥:《森IX》2008年 木、灰、アクリル 各220×31×31cm(30点) ベルナール・ビュフェ美術館蔵

激動の時代に体感した現代美術の変遷

「戸谷成雄 彫刻」展は、戸谷の出身地である長野県と、現在の制作拠点である埼玉県の県立美術館による共同開催。埼玉会場での展示は3部で構成され、大学在学中に制作した人体彫刻作品から初個展で発表された《POMPEII‥79 Part1》、代表作「森」シリーズ、最新の「視線体」シリーズまで、半世紀にわたる制作の足跡を辿る内容となっている。

──卒業制作など大学時代の作品も展示されていますが、今ご覧になってどう感じますか?

戸谷 複雑な気持ちがあります。大学の4年間は具象をやり、大学院から抽象に移ったのですが、現代美術の方向に進もうという思いは学部の頃から芽生えていて、具象と並行して実験的なこともやっていました。

学生時代の彫刻を見ると、当時の時代状況を思い出します。在学中はベトナム戦争が終盤の凄烈な状況があり、70年安保闘争で学生運動も激しく、大学の中に機動隊が入って来たりしていました。その中で学生たちは、自分の思想的立場をどう位置付け、どう行動しなければいけないか、決断を突きつけられていたのです。学生時代の彫刻は、その頃の自刻像の意味合いが強いですね。

──1970年には「もの派」の作家も多く出品した「人間と物質(第10回日本国際美術展)」展が開催されています。

戸谷 観に行きました。こういう考え方や美術の在り方があるのだと、衝撃を受けました。しかしその一方で、抵抗感もありました。近代美術に対しての批判的な作品が大半で、美術の古典的な形式を解体させようという意図でつくられていました。もちろん作品の中には物質性がありますが、「彫る」「刻む」という行為によるコンセプトで成り立つ作品はほとんど見当たりませんでした。
それはつまり、物質と形が組み合わさることで発せられる「彫刻の言葉」を失うということです。絵画であれば色彩や筆触などの関係性の中で、物質と行為によって生み出される「絵画の言葉」がある。そういった情感や感覚を排除してしまっていいのかと。彫刻の言葉を失うということは、彫刻のあり方も排除してしまうことになるので、それは僕はちょっと許せないという感じがありました。

《POMPEII‥79 Part1》1974/1987年 コンクリート、板 各45×45×170cm(4点)、15×60×65cm 作家蔵

「視線の構造」の会得

1970年代半ばから80年代にかけて、古代都市ポンペイの犠牲者の痕跡を復元する方法に着想を得た《POMPEII‥79 Part1》や、垂木や鉄筋などをランダムに組み合わせた「《構成》から」、木材の表面に無数の凹凸をチェーンソーで彫り刻んだ「森」などのシリーズ作品を発表する。さらに、竹藪の中に紐を張り巡らせて視線の軌跡を可視化した《竹藪Ⅱ》や、「《構成》から」の作品の一部を燃やす「夏草や兵共が夢の跡」「閑さや岩にしみ入蝉の声」などのパフォーマンスも行っている。

──1974年に《「POMPEII‥79 Part1》を発表されていますが、この作品は、どのような意識で制作されたのですか?

戸谷 具象彫刻から離れて現代美術を始めるにあたって、根拠をどこに求めたらいいのかと考え、概念と物質の関係から考え直さなければいけないのではないかと思い至りました。
当時の現代美術のひとつの傾向に、日本回帰めいたものがありました。画家は大和絵の平面性を参考に日本の絵画を立ち上げようとしましたし、もの派は西洋の造形思想を批判して、日本的、あるいは東アジア的な空気感と、物体、物質の感覚を呼び起こそうとしているように当時の僕にはみえました。彫刻家の関根伸夫さんは、「物体にくっついている概念という埃を払う」という言い方をしています。また禹煥さんは、ご自身は否定しているのですが、石の並べ方やその関係について、枯山水や東山文化の考え方を取り入れているように感じられました。
しかし僕はそれとは逆方向に、概念がどのようにつくられ、どう変化してきたかを考える必要があるのではないかと思いました。たとえば石器時代、地面に落ちていた尖った石でケガをした人が、鋭利な石は切れるということを発見した。その石に木の棒を括りつけることで、「斧」という概念が生まれました。そういった太古からの考え方やモノから考え直さなければいけないと考えたのです。日本文化の、すり鉢的な構造の中にとどまるのではなく、底を突き抜けた向こうに開けてくる、普遍的な表現の原型を目指していこうと考えました。

──翌年の75年には《竹藪Ⅱ》も制作されています。

戸谷 僕は長野の上水内郡というところで育ったのですが、竹藪がたくさんあって、子どもの頃はよく石を投げ込んで遊んでいました。竹に当たるとカーンといい音がするけれど、どの竹にも当たらずにスーッと抜ける場合もある。その石の軌跡を一本の線としてとらえてみたのです。ある竹を目指して歩いて行き、そこに紐を引っ掛けて、別の竹に向かっていく。竹藪中を歩き回りながら紐を掛けていくと、僕自身が通ってきた視線の記録になるわけです。1回しか絡まない竹もあれば、5回も6回も絡まる竹もあって、それは僕の視線が集中した竹となります。竹藪の中に、ぽつぽつと小さな中心ができて、「多中心」が生まれてくるという構造が見えてきました。
多中心というのは、キリスト教社会やイスラム教社会のような一神教の世界にはない構造ですが、八百万の神の国である日本の宗教感覚、自然の感覚にはなじんでいます。この構造で彫刻をつくれば、今までの西洋彫刻にもとづいた具象彫刻とは違う構造の彫刻をつくれるのではないかと発見したのです。これはひとつの転機になりました。

《竹藪Ⅱ》1975年 竹藪、ビニール紐 (現存せず)

行き詰まった先に見えたもの

──交差する視線という考え方は、現在の制作にも通じているのですか?

戸谷 構造的にはほとんど変わっていません。《竹藪Ⅱ》は、竹藪の中を歩き回っているので平面的ですが、これを上から見たり下から見たり、右を見たり左を見たりしていると、空間の中に視線が生まれてきます。空間の中の視線の中に彫刻が生まれるという考え方です。

──視線が彫刻の凹になり、立体になって現れているということですね。

戸谷 人体彫刻はノミで表面をなぞるように彫るので、つるっとした感じになりますが、チェーンソーで刻みを入れると、削り取ったところは凹んでマイナスになり、取られなかったところは凸として飛び出てプラスになる。雨が降ると、平らな地面に水が流れ、浸食が大きくなると、地面が削り取られて谷が生まれ、削り取られなかったところは山の形で残る。そうして平地から山と谷が生まれてきます。このプラスとマイナスの関係を表現したのが「森」のシリーズで、自分にとっての大きな転機になりました。表面について考えるきっかけになったのは、《竹藪Ⅱ》の前年につくった《POMPEII‥79 Part1》で、これも転機といっていいと思います。

──《「POMPEII‥79 Part1》はポンペイの犠牲者の痕跡を、火山灰の堆積層の空洞に石膏を流し込むという鋳型鋳造で復元したことにインスパイアされたそうですね。

戸谷 物質の表面は、概念的には質量を持ちません。しかし鋳型と鋳物の関係を見ると、流し込まれた形の表面は、型の内側になります。形の外側の表面が、型の内側の表面に移動するということを繰り返していくうちに、表面というのはモノの外側のものなのか、内側のものなのかがあいまいになっていきます。
この考え方は、森の構造に似ています。木の上のほうは葉がざわめき、地面には枯れ葉があって、その下には木の根っこが生えている。太陽の光は、半分ははじき返されるけれど、もう半分は中に入り込んで、地面に木漏れ日が映る。そこには外部と内部が共有された、厚みをもった領域が生まれます。西洋的な概念の表面とは違う、半空間、半物質のような状態のあいまいな領域です。その表面の構造が、東アジア人の精神構造と密接につながっているのではないかと思うのです。

《森—Ⅰ》1984年 木、鉄筋、アクリル 103×39×22cm 作家蔵

──その後、海外の展覧会にも多く出品されていますが、キャリアの転機になりましたか?

戸谷 88年にヴェネチア・ビエンナーレの出品作家に選ばれたことは、その後の発表の機会が増えるきっかけになりましたし、社会的な意味では転機といえると思います。意識の面で大きな転機になったのは、自分の制作物に火を点けて燃やしたことです。浜松の中田島砂丘、富山の浜黒崎海岸、バングラデシュのガンジス河畔の3か所でやりました。

──なぜ燃やしたのですか?

戸谷 概念的なつくり方を繰り返していると、いくつかのパターンをこなしているようで、行き詰まってしまうのです。有り体にいえば、行き詰まったから燃やしたのです。海岸に穴を掘って、その中に制作物を刺し込み、倒れないように足元を石膏で固めて、棒で横につなげていくのです。その状態で火を点けると、火が隣の棒にも伝わって、お互いに関係づけながら燃え広がっていく。立ち昇る炎とともに燃えたものは砂上の楼閣で、焼け残った石膏の下の、見えない場所に観念が入り込んでいくように思えました。その考えから「地下の部屋」のシリーズも派生していきました。

《閑さや岩にしみ入蝉の声》1983年 角材、石膏、釘、火(現存せず)

「2つの目」を磨く

戸谷は2018年まで27年にわたり、武蔵野美術大学で後進の育成にも尽力してきた。自身の学生時代とは異なる今の時代環境や、その中で制作に取り組む若い作家たちに対して、何を思うのだろうか。

──戸谷さんが彫刻家の道を志したのはいつ頃のことですか?

戸谷 高校を卒業後、上京して社会人になり、1年半くらい働いていた時です。中学生の時に美術部に入り、そこで彫刻に興味を持つようになったのですが、その頃夢中になって制作していた、あの生き方をしたい。お金なんかなくても最低限食べられればいいから、生き方を変えたいという欲望が抑えられなくなりました。それで覚悟を決めて、会社を辞めました。覚悟が決まれば、迷うこともなく、作家をやめようと思ったことは一度もありません。

──制作の原動力はどこにあるのでしょう?

戸谷 わからないんですよ。つくり終わって展示会場に送り出してしまうと、もう自分にとっては終わったことなので、いらないものになってしまいます(笑)。次に何をつくらなければならないかということで頭がいっぱいになります。原動力は、その強迫観念かもしれないし、義務感かもしれない。つくらないと、ものすごく不安になって、自分が何のために生きているのかもわからなくなってくる。つくりたいものが湧き出てくるなら何も苦労はないのですが、湧き出てこないから苦しい。何をつくりたいのかわからないけど、何かあるんです。少しでも井戸を掘ったら水が湧き出てくるんじゃないかと思って、それをひたすら探しているようです。

手前:《双影体II》2001年 木、灰、アクリル 84×73×850cm 愛知県美術館蔵
奥:《洞穴体III》2010年 木、灰、アクリル 199×131×70cm、199×131×59cm、199×131×68cm、199×131×68cm 作家蔵

──若い作家たちへのメッセージがあれば聞かせてください。

戸谷 彼らは難しい時代に生きていると思います。僕らの若い頃は、反抗するものがあった。国家や、東西の対立とか、思想的にも右翼や左翼など、いろいろなことに対して敵が見えていました。今の人たちはどう自分の思想を構築していくのか、僕にはよくわかりません。
彼らは小さなコミュニケーションの触れ合いや、微妙な感覚の中で生きていて、作品もそういうものが多い気がします。コミュニケーションの問題や、社会的な差別の問題に敏感なのはいいことですが、ある種の政治的主張やメッセージ性が、直接的な表現に現れているように思います。
マネ以前くらいまで、作家はキリスト教的な制約の中で、王様や教会、貴族などから注文を受けて制作していました。たとえばロシアでは、ソ連時代の社会主義リアリズムによって、美術はすべて政治的なメッセージを含んだ表現になったわけですが、そういった政治的なメッセージから解放されることは、芸術の表現にとって大きな意味を持っていました。
現代のメッセージは、権力者によって命令されたものと違い、下から立ち上がってきたものですから、否定はしません。ただし、社会の問題に対する視線を表現していく目とは別に、目の前に存在している物体を見る目も大事です。そこで起こっていることの不思議さ、美しさ、驚き。物体から概念化された感覚を取り除いた時に現れてくる視覚の喜び。形に対する感受性が弱くなってしまうとすると、それは寂しいことだなと思います。若い時はうんと遊んで、両方の目を磨いて欲しいですね。
(2023年3月14日、埼玉県立近代美術館にて収録)

Text:杉瀬由希
Photo:栗原論

戸谷成雄
Shigeo Toya

1947年、長野県上水内郡小川村生まれ。1975年、愛知県立芸術大学大学院彫刻専攻修了。初個展「POMPEII‥79」(1974年)以降、同時代の美術潮流のなかで解体されていった「彫刻」というジャンルの再構築を試み、その根源的な成り立ちや構造を問う作品を発表する。1984年より制作をはじめた「森」シリーズによって高い評価を得る。主な個展に、「戸谷成雄展 視線の森」(広島市現代美術館、1995年)、「戸谷成雄—森の襞の行方—」(愛知県美術館、2003年)、「戸谷成雄展 洞穴の記憶」(ヴァンジ彫刻庭園美術館、2011〜12年)、「戸谷成雄―現れる彫刻」(武蔵野美術大学 美術館・図書館、2017年)など。ヴェネチア・ビエンナーレ(1988年)、光州ビエンナーレ(2000年/アジア賞受賞)をはじめ多くの国際展に参加。2009年、紫綬褒章受章。武蔵野美術大学名誉教授。

「戸谷成雄 彫刻」
会期=2023年2月25日(土)〜5月14日(日)
会場=埼玉県立近代美術館
休館日=月曜日(5月1日は開館)
開館時間=午前10時〜午後5時30分(入場は午後5時まで)
観覧料=一般1200円、高校・大学生960円、中学生以下無料
https://pref.spec.ed.jp/momas/2022toya-shigeo

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