1629(寛永6)年、水戸藩の初代藩主徳川頼房(よりふさ)は、小石川の地を幕府より拝領し、自身の屋敷地としました。小石川台地の南端に位置し神田川に面したこの場所の高低差は、庭園の景観を独特なものとしています。庭園名にもある「小石川」はかつて実在した川の名前で、小石が多いことから、またの名を礫川(れきせん)とも呼ばれました。礫川の名は、庭園の東側、後楽園駅のすぐ隣にある礫川公園や近くの礫川小学校の名前に残されています。現在は埋め立てられ、千川通りとなっています。南に神田川、東にかつての小石川があるため、南東から北西に向かって標高が上がります。つまり小石川後楽園の来訪者は、低地にある南西の門より入園し、北側の高台を登りながら園内を回遊することになります。(前編の地図参照)
小石川後楽園〈後編〉
東京の静寂を探しに
No.006小石川後楽園は、江戸から京都までの旅路、中国の景勝地、和歌の名所など、水戸徳川家の歴代藩主の思想や好みが反映された江戸時代を代表する名園です。明治時代になり同家の手を離れたあとは、どのように現代まで伝わってきたのでしょうか。その変遷と、地形や周辺地域との関わりをみていきましょう。
写真:櫛引典久
お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)
協力:公益財団法人東京都公園協会
二つの川に挟まれた変化に富んだ地形
大名庭園は、江戸時代に諸大名が江戸や国元で築造した庭園の総称で、もっとも一般的な形式は「回遊式庭園」と呼ばれます。小石川後楽園は庭園の中心に大泉水を据えた「池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)」です。「回遊式庭園」は、室内から座って観賞する「座観式庭園」とは対照的に、園内を巡りながら風景の移り変わりや展開を鑑賞する庭園です。
小石川後楽園では、特にそのメリハリを実感できます。北西の愛宕坂や八卦堂がある方角は一番高い場所です。急勾配の階段も、天然の崖地を活かして造られています。
同園は、平らな土地に人工の築山で緩急をつけた庭園とは違い、地形の起伏によって園路が複雑にわかれ、一筆書きでは進めません。木々が鬱蒼とした場所や山沿いは見通しが利かず、園路を進んでいくと急に視界が開けるため、歩くたびに眺めが変わっていくおもしろさがあります。庭園自体は決して広くはありませんが、不思議な空間の広がりを感じさせるのです。
東京砲兵工廠との共存
小石川後楽園は、その時々の藩主による改造・変革や自然災害による破壊、幕末の荒廃など、江戸時代においても平坦な道を歩んできたわけではありません。しかし、庭園に理解のある所有者によって、その素晴らしい景観が維持されてきました。
1867(慶應3)年に江戸幕府が滅亡すると、二百七十余藩の藩主が江戸に持っていた屋敷と、旗本、諸侯の家臣の屋敷は新政府により撤去され、同時に屋敷地に敷設されていた数多の庭園も例外を除き破壊しつくされました。この状況のなかで、小石川後楽園と屋敷は新政府に明け渡され、兵部省の管轄となり、東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)が設けられました。この時、工廠設備の拡充のため後楽園全域を潰廃(かいはい)する構想が起こりましたが、当時の陸軍卿であった山縣有朋(庭園に造詣が深く、自邸として東京の椿山荘、別荘として京都の無鄰菴〈むりんあん〉を所有、作庭家の岩本勝五郎や七代目小川治兵衛とともに名庭園を造り上げた)が「天下の名園を失うに忍びない」として反対し、その構想は中止となったといわれています。
その後、庭園は国内外の賓客をもてなす場として重要視されるようになっていきます。小石川後楽園が庭園として存続できたのは、山縣有朋のおかげかもしれません。
東京砲兵工廠は鉄砲の弾薬や大砲を生産する工場で、交代制で24時間稼働していました。その名残が小石川後楽園にも残されており、九八屋(くはちや)の近くにある、円盤に筋の入った遺構は、弾薬の型を抜く道具ではないかと考えられています。
しかし、庭園は工廠からの排煙で、樹木や木造建築物が被害を受けてしまいます。8代将軍徳川吉宗が絶賛したという松原も、背の高い黒松が排煙で弱り、数を減らしました。それでも、1914(大正3)年刊行の東京の名所案内『東京案内』に、後楽園(小石川)は「古来東都第一の庭園」であると記されています。
なんとか庭園としての命脈を保ってきた小石川後楽園は、1923(大正12)年に国の史跡および名勝に指定されました。その矢先、同年9月に関東大震災に見舞われ、庭園は清水観音堂などを失います。この震災をきっかけに、東京砲兵工廠は福岡県の小倉に移ります。
1936(昭和11)年には文部省の所管になり、翌年には東京砲兵工廠の跡地に後楽園スタヂアムが開業、庭園も1938(昭和13)年に有料で一般公開されました。この年に東京市から小石川後楽園の写真集が発刊され、すでに失われた清水観音堂、7年後の空襲で焼失してしまう唐門や九八屋、西行堂の写真が掲載され、在りし日の姿を伝えています。そして1952(昭和27)年に国の特別史跡および特別名勝に指定され、現在に至ります。
守り伝えながら進化し続ける庭園
水戸徳川家の庭園から東京砲兵工廠の庭園となり、所有者による改修や震災・戦災をくぐり抜けて、都が管理する庭園となった小石川後楽園。今日でも、庭園の美しさを後世に残す多様な取り組みが続いています。
まずは、失われた建造物の復活です。大泉水の奥にある白糸の滝は2020年、調査開始から10年ぶりに蘇りました。サービスセンター長の西山礼美さんのお話では、水源は大泉水とのことで、堂々と流れる滝の姿に、かつての所有者たちも心が洗われていたことでしょう。滝の再現にあたっては、時代や季節により水量が異なり、また研究者によっても見解が異なるため、その工法や形状は幾度も議論を重ね決められたようです。
庭園の維持管理の一つに、冬の雪吊りがあります。雪吊りとは、雪の重みで松などの枝が折れないよう、縄で吊って支えるものです。一つ松は園内で一番大きい松で、琵琶湖にある「唐崎の松」に見立て、大泉水の近くに植えられています。
また、土留めに使われる竹を編んだ柵(しがらみ)や、流れが激しい川の護岸に置かれる蛇籠(じゃかご)など、伝統的な土木技術も継承されています。蛇籠は竹の籠の中に石を詰めたもので、現在も針金製のものがあります。小石川後楽園では、絵図などから大きさを推測し、景観を損なわない竹製で再現しています。蛇籠がみられるのは都立庭園ではここだけです。
2代藩主光圀が園内に設けた稲田は、現在は地域連携の場で活用されています。毎年、近隣の小学生が庭園の職員指導のもとでもち米の苗を植え、カカシを立て、稲刈りまでを行います。お正月には収穫したもち米を子どもたちが鏡餅にして、園内で展示するそうです。
また、光圀は雅号を「梅里」と称するほど、梅を愛しました。園内には35種以上、約90本の梅の木があり、見頃を迎える毎年2月には梅まつりも開催されています。
現代に残る庭園の保存と活用は、自然の起伏に富んだ小石川後楽園では難しい部分もあります。それでも、屋外に開かれた「作品」として美しい景観を保ち、歴史的建造物を保存しつつ、車椅子の方や親子連れなどたくさんの人に庭園の魅力を伝えていきたいと西山さんはおっしゃいます。
このように、庭園が築かれた約400年前から現代に至るまで、小石川後楽園には多くの苦難がありました。それでも、土地の高低差を活かした緩急豊かな景観、そこに散りばめられた水戸徳川家歴代藩主の思いは、今日も訪れる人々を魅了し続けています。
構成:浅野靖菜
小石川後楽園
住所:東京都文京区後楽一丁目6-6
開園時間9:00-17:00(入館は16:30まで)
休園日:年末年始
入園料:一般300円、65歳以上150円
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index030.html
※開園情報はサイトにてご確認ください
櫛引典久(くしびき・のりひさ)
写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。
田中実穂(たなか・みほ)
東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。
講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/ をご覧ください。