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劇団民藝〈前編〉

いまこそ語ろう、演劇のこと

No.001

新連載1回目は、今年(2020年)4月に創立70周年を迎えた〈劇団民藝〉。俳優の樫山文枝、千葉茂則、そして演出の丹野郁弓の三人に、次回公演への意気込みや、作品ができていく過程、また演劇にとって未曾有の状況であるコロナ禍についてなど、さまざまに語っていただいた。


左から丹野郁弓、樫山文枝、千葉茂則

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2020.09.09

劇団民藝[げきだんみんげい]

1950年4月3日、築地小劇場、新協劇団など「新劇」の本流を歩んできた滝沢修(1906~2000)、清水将夫(1908~1975)、宇野重吉(1914~1988)、岡倉士朗(1909~1959)らによって、民衆に根ざした演劇芸術をつくり出そうと旗揚げされた。今年(2020年)創立70周年を迎えた。


創立70周年を迎えて

樫山 本当にねえ、いつの間にか70年も経ってしまったんだなあって。私が入ってからは57年ですね。一番活動していた頃を体験しているので、感慨深いです。

宇野重吉先生ご存命中には「劇団一代論」(1971年に宇野が提唱した「劇団は創立者一代限りのものである」という理論)という、びっくりするような言葉もありましたし、宇野先生、滝沢先生がお亡くなりになった後などは、どうやって続いていくのかなと思った頃もあり、本当にいろいろなことがありました。今でもやっぱり創立者の先生方が築かれたものは、すごく私の中で栄養になっています。

宇野先生の功績の一つに、アントン・チェーホフ(1869~1904)作品の舞台化があります。1950年の劇団旗揚げ公演『かもめ』にはじまり、1969年の『かもめ』再演、1972年『三人姉妹』、1974年『桜の園』と上演されましたが、私は1969年の『かもめ』と1972年の『三人姉妹』に出演することができました。宇野先生がチェーホフ作品に挑んでおられた一つのピークの時代を共に過ごせたことは、特に貴重な経験でした。当時の綺羅星のごとく素晴らしい先輩がたとも稽古ができて、そこで本当の意味での演劇の醍醐味を味わいましたので、その後も「演劇こそが私の聖地」と思って続けてくることができたんです。

その頃の大先輩はお亡くなりになる方も増えてきましたが、劇団としてはまだまだ、時代に即した柔軟な作品を選べているんじゃないかと思っています。

左:第⼀回公演 1950年『かもめ』 奈良岡朋⼦、宇野重吉
中央:1969年『かもめ』 樫⼭⽂枝、下元勉
右:1972年『三⼈姉妹』 樫⼭⽂枝

千葉 民藝の歴史のなかで、宇野先生、滝沢先生が亡くなられた時の衝撃は、やはり大きかったですね。

樫山 そうですね。方向性の決定や、レパートリー、配役、運営からマスコミ対応まで、あらゆることを目配りしていらっしゃいましたから、それは大変でした。でも、もう昔のようにということばかり目指さなくてもいいだろうとも思うんです。人も世の中も変わっていきますし、先代の方々が新劇の歴史を築き上げての今だからこそ「後に続くあなたたちも自由におやりなさい」と、彼らには言われていると私は思っています。新劇の功績により「演劇というものは素晴らしいものなんだ」ということをあまねく日本中の人が知って、その結果、いま世界に類のないほど大小の劇場があふれる国になったわけですから。

丹野 確かにこんなふうになるとは、先代たちは思わなかったでしょうね。

私は70周年といっても、私自身がその半分ちょっとしか劇団歴がないものですから、樫山さんほどの感慨は正直ないんです。でも劇団民藝が70年続いてきたということは、やはり私たち以前の先輩たちの努力とか、気迫っていうのかな、そういうものが素晴らしかったんだろうなと思います。

先ほど樫山さんがおっしゃられていた宇野先生の「劇団一代論」は私も、リアルタイムではありませんが歴史的できごととして心に強く残っています。「劇団は創立者のものなんだから、その一代で潰してしまえ」という言葉があちこちで引用されているんですが、それって「潰してしまえ」に重点があるわけではなく、「続けることだけに汲々とするな。それよりも一回一回の芝居に力の限りを尽くせ」という意味だと思うんですね。私たちが受け継ぐべきはそうした精神こそだし、そうしてきた結果の70周年ということだと理解しています。

千葉 僕も入団して43年経ちますので、創立何十周年の節目というのは幾度か体験しているわけですけれど、そのどこででも、劇団こぞって年を祝うっていう形はなかったように思います。だからやっぱり、自分が俳優の立場として、どういう形で70年という節目を過ごしていくべきかというと、今まさに丹野さんが言った通りのことだと思うんですね。僕自身も何十年経ったからどうこうというのでなく、その時どきに自分の持っている力を、どう芝居のなかで表現できるか、それだけですね。先輩になったから偉そうにするとかもないですし、まあ、そんな威厳もないしね(笑)。

丹野 それは性分だから。

千葉 本当にそう。向き合った芝居と、どうやって一生懸命取り組んでいくか。それに尽きるんじゃないでしょうかね。

樫⼭⽂枝

芝居をつくり上げていく仲間

丹野 樫山さん(1963年入団)はぐっと先輩ですが、千葉さん(1977年入団)とは、私の方が後輩(1982年入団)なものの、年代はほぼ変わらないので、遠慮はないですね。仕事になったら、まあお互いむき出しです(笑)。お互い枠を設けてつき合うというのは、それこそ演劇的じゃないですし。芝居をつくるっていうことに、先輩後輩はないですよね。

千葉 うん。

丹野 とはいえ一応遠慮はあるんですよ(笑)。言い方は気をつけますけど、思ったことを思った通りに言っています。でも、そういう関係・環境をつくれるかつくれないかが、演出家になれるか、なれないかの分かれ道だとも思うんです。

樫山 千葉さんは私よりずっと後輩で、若い頃よく相手役なんかもしていました。昔から決して器用な人ではなかったけど、今回の公演で何年かぶりにご一緒してみて「成長してるなあ、ここまできたんだ」って感動がありました。後輩だと思っていたけど今は全く同等で、それをすごく嬉しく感じています。

丹野さんもそうです。「よく育った」っていったら語弊があるけど、もう立派な演出家になっちゃって。私なら思いもしない感覚の、鋭い指摘に助けられています。今は劇団の方向を決める立場にもありますしね。

二人とも遥か彼方に私を追い越して、今度は私が彼らの力を借りていく。ここにも70年の劇団の歴史が紡がれているなと思います。

丹野郁⼸

緊急事態宣言下で

丹野 4月7日に緊急事態宣言が発令、外出自粛や店舗、劇場などの休業要請が行われました。劇団民藝も、70周年記念となるはずだった4月公演が中止を余儀なくされてしまいましたよね。この間、皆さんはどうされていましたか。

樫山 私は外出自粛期間中、ずっと家で過ごしていました。この先、演劇自体が成り立つんだろうかと不安な気持ちを抱えながらで、それは今も続いていますが……。

ただ、お籠り自体は、ある意味でしてよかったかなとは思っているんです。じっくり世の中のことを考えることができましたし、いつかは読み直さなきゃとずっと思っていた昔の蔵書も、かなり読むことができました。青春時代に集めていたチェーホフの全集もその一つだったんです。そうしたらその後、『ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク』は9・10月に上演できることが決まって、不思議な縁を感じました。

千葉 ぼくは正直に言いますと、こういう状況にあって、自分の気持ちをどう維持していくかはなかなかにキツかった。4月公演『どん底―1947・東京―』の初日は4月9日で、それに向けてずっと稽古していたわけですが、そんなときに緊急事態宣言が出て、上演できなくなり、稽古もなくなった。それまで必死に、その作品をどういいものにしていくかに専念していたのが、一瞬のうちに消えちゃって「どうしたらいいんだ」と。再開時期もまるでわからない状況で、自分の気持ちをどうやってコントロールするかの葛藤が長い間ありました。

その中で、俳優として時間を有効に使えていたかっていうと、樫山さんみたいにはいかなくて、本当に「どうしたら芝居を打つことができるんだろう?」という思いばかりが強かったです。だから『グレイクリスマス』の旅公演のあたらしい上演スケジュールが決まり、6月20日に稽古が始まったときは、もう何にも代えられない喜びでしたよね。

コロナ禍がなければ5月から地元川崎を皮切りに西日本各地(大垣、福井、京都、西宮、九州)へ旅公演するはずだったのが、長野県だけになって。それでも嬉しかったなあ。

千葉茂則

丹野 私も千葉さんと同じで、自粛の間はこれということは何もできずにいました。「この2、3カ月の間にさぞかし翻訳もはかどったろうね」と言われるんですが、何しろどこに向かって照準を定めればいいのかわからない。だから『グレイクリスマス』の稽古が再開すると決まったとき、エネルギーが自分のなかに復活するかどうか、非常に疑問でした。なのに稽古が始まった途端、カーッとなって(笑)。人間やはり、目的とかゴールとか、「ここだぞ」っていうものあれば、動けるもんなんだと思いましたね。

次回公演に向けて

丹野 そして、満を持しての9・10月公演となるのは、クリストファー・デュラング作『ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク』。民藝にとって縁の深い作家である、チェーホフへのオマージュに溢れた作品です。

樫山 この作品がユニークだと思ったのは、チェーホフへの敬愛の念は私と同じくこの作家も持っているのに、視点は全然違うということでした。今の時代はチェーホフそのものにもまして、この作品の面白さが受け入れられやすいかなと思っています。

丹野 翻訳者と演出家としてでは、神経を使っている場所が別なんですが、訳す時にはキャスティングのことは考えていません。ですが、その後キャスティングしたところで「ああ、これは千葉さんなんだ」とか「これは樫山さんなんだ」と、思いながらもう1回訳したのが最終稿になる感じです。頭の中で登場人物が動いてくる。そういうことはありますね。そしてそれと演出とはまた全然別の作業のような気がします。

樫山 丹野さんが使う言葉は現代的で、すごく生き生きしてる。丹野さんらしいですね。

いつか丹野さんに「私がやれそうな本を探して」と言った時、「わかりました。樫山さん、どういう言葉を喋りたいですか」って問いかけられて、ハッとさせられたことが今も印象に残っています。

脚本の翻訳って、小説の翻訳以上に、生きた言葉に敏感な人じゃないと難しいはず。生の人間が舞台でやるものですから、その時代をちゃんと生きてアンテナを張っていないと、古めかしくなってしまうでしょう。その点、丹野さんはいつも、いまの生きた言葉を的確にバサッととらえて持ってきますから、本当に素晴らしい翻訳者だと思います。

『グレイクリスマス』に出演の劇団員たち。神奈川県川崎市の劇団⺠藝稽古場にて

後編に続く

構成:合田真子
Photo:中川周

丹野郁弓[たんの・いくみ]

1982年劇団民藝演出部に入団。『青春の甘き小鳥』で初演出。主な演出作は『アンナ・カレーニナ』『アンネの日記』『明石原人』『ドライビング・ミス・デイジー』『エイミーズ・ビュー』『八月の鯨』など。1997年に湯浅芳子賞、2004年に『スポイルズ・オブ・ウォー』の翻訳・演出で千田是也賞、2008年に『坐漁荘の人びと』で読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。近年の演出作(海外戯曲は訳も)に木下順二作『夏・南方のローマンス』(2013、2018)ウィリアムズ作『二人だけの芝居』、長田育恵作『SOETSU』(2016)小幡欣治作『熊楠の家』長田育恵作『「仕事クラブ」の女優たち』(2017)、黒川陽子作『時を接ぐ』、斎藤憐作『グレイクリスマス』(2018、2020)、池端俊策・河本瑞貴作『正造の石』、M・ヘイハースト作『闇にさらわれて』、小山祐士作『泰山木の木の下で』(2019)など多数。

樫山文枝[かしやま・ふみえ]

東京都出身。1963年劇団民藝入団。翌年舞台『アンネの日記』のアンネ役に抜擢されてデビュー。NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」(1966~67)でお茶の間の人気を独占した。主な舞台は『かもめ』ニーナ、『三人姉妹』イリーナ(芸術最優秀賞)、『山脈』村上とし子、『夜明け前』お民、『人形の家』ノーラ、『エマ』エマ・ゴールドマン、『かの子かんのん』岡本かの子、『静かな落日』広津桃子、久保栄作『火山灰地』雨宮照子など多数。近年の舞台は、井伏鱒二原作・吉永仁郎脚本『集金旅行』コマツランコ(2013)、中津留章仁作・演出『篦棒』大友凜(2016)、佐藤五月作『ペーパームーン』三野瀬桃子(2018)、池端俊策・河本瑞貴作『正造の石』福田英子、中津留章仁作・演出『異邦人』村本早苗(2019)など多数。2008年上演の原田康子原作・小池倫代脚本『海霧』平出さよ役の演技で紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。

千葉茂則[ちば・しげのり]

1977年、劇団民藝入団。主な舞台は『るつぼ』ジョン・プロクター、『アンナ・カレーニナ』レヴィン、『桜の園』トロフィーモフ、『アルベルト・シュペーア』シュペーア、『明石原人』直良信夫、『巨匠』俳優、『火山灰地』逸見庄作、『ドライビング・ミス・デイジー』プーリー、『アンネの日記』オットー・フランク、『無欲の人』モリカズなど。近年では木下順二作『冬の時代』渋六(2015)、畑澤聖悟作『光の国から僕らのために』円谷一(2016、2018)小幡欣治作『熊楠の家』南方熊楠、木下順二作『審判』裁判長(2018)、斎藤憐作『グレイクリスマス』五條紀明(2018、2020)、M・ヘイハースト作『闇にさらわれて』コンラート博士(2019)、小山祐士作『泰山木の木の下で』歌を唄う男(2019)、ナガイヒデミ作 『白い花』佐倉由宇(2020)など多数。

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