小石川後楽園は、都内の庭園では浜離宮恩賜庭園と並び、特別名勝・特別史跡の重複指定を受けています。「後楽園」と名のつく庭園に、日本三名園の一つに数えられる岡山後楽園(岡山県岡山市)がありますが、作庭時期は小石川後楽園の方が約60年先です。名前の由来は、中国の書物『岳陽楼記(がくようろうき)』に記されている為政者の心得を説いた文章の一節で、「士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽=(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から取られました。
小石川後楽園〈前編〉
東京の静寂を探しに
No.005写真家の櫛引典久さんの写真と、東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さんの解説で、東京都内の庭園をめぐる連載。第3弾は、東京ドームの隣に位置する、将軍家とも近しい水戸徳川家ゆかりの庭園、「小石川後楽園」です。前編では、歴代藩主によって庭園の基礎が築き上げられるまでを紹介します。
写真:櫛引典久
お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)
協力:公益財団法人東京都公園協会
庭園の名があらわす藩主の心得
この庭園が造られた場所は、もともと退隠後の大名や世継ぎのための中屋敷でした。しかし、1657(明暦3)年の明暦の大火をきっかけに江戸城内にある上屋敷の郊外移転が命じられ、水戸徳川家の藩主が居住する上屋敷となったのです。その敷地は、現在の後楽園駅、東京ドームシティや中央大学後楽園キャンパスなども含みます。
個性的な庭園を描いた3人の藩主
庭園は、初代藩主徳川頼房(よりふさ)により造成されました。頼房は徳川家康の11男にあたり、1629(寛永6)年、幕府からこの場所を屋敷地として拝領しました。一説には、神田川に面して高低差のある土地を大層気に入り、自分から所望したとされています。
池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の園内は、大泉水を中心とした「海の景」、大堰川(おおいがわ)周辺が「川の景」、清水観音堂跡や得仁堂のある高台が「山の景」、そこを抜けた稲田や梅林が広がる平地が「田園の景」と、景色が目まぐるしく変わります。
今の順路は西門から入って左回りですが、もとは東門(2020年現在閉鎖中)側内庭からスタートし、江戸から京都への旅になぞらえて、中山道の木曽路を通り、琵琶湖を模した大泉水を望み、そして大堰川や渡月橋にたどり着くように作庭されています。
続く2代藩主光圀(みつくに)は、中国趣味を取り入れた庭づくりを行います。光圀は幕府が奨励していた儒学に傾倒しており、1665(寛文5)年、滅亡した明王朝から日本に亡命していた儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)を招聘(しょうへい)します。同氏は死去するまでの18年間を光圀の師として過ごし、儒学や礼法のほか新しい造園技法などを光圀に伝えました。庭園内の円月橋、西湖の堤、小廬山(しょうろざん)といった中国の景勝地になぞらえた景観には、朱舜水の強い影響が見られます。
特に、水に映る影と底部のアーチが真円を描く中国様式の円月橋は、同氏の設計とも言われ、8代将軍吉宗が同園を訪れた際に感銘を受け、自身の庭園で再現を試みるも失敗に終わったという逸話が残っています。
当時の中国は文化や学問のお手本とされ、大名が屋敷地の庭園に中国の景勝地を再現することはよくありました。小石川後楽園の場合、朱舜水という中国出身のアドバイザーのおかげで、クオリティーの高い造営ができたのでしょう。
こうして光圀渾身の庭園が出来上がりますが、以降の藩主は庭園へのこだわりが少なく、大泉水の形状や石組の変更、樹木の伐採など、当初のコンセプトが損なわれる改変が多々ありました。1702(元禄15)年に5代将軍綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)が来園した際には、年齢に配慮して大岩や奇岩が安全のため取り除かれました。加えて、1703(元禄16)年と1855(安政2)年の2度の大地震で、石組が崩壊するなどの被害も出ています。
9代藩主斉昭(なりあき)は、15代将軍・慶喜の父にあたり、幕政の補佐も務めた人物です。造園史の上では特に著名な人物であり、日本三名園のひとつに数えられる水戸偕楽園の創設者です。斉昭は、頼房・光圀時代の作庭当初の後楽園に戻すよう努めましたが、震災や、幕末の動乱により修復がかなうことはありませんでした。現在も見ることができる斉昭の形跡として、西行堂(現在焼失)付近の流れへの「駐歩泉」の命名と石碑の建立があります。「駐歩泉」としたのは、西行の歌「道のべにしみづながるる柳かげ しばしとてこそ立とまりつれ」によるもので、この歌の雰囲気が良く現れていたからと言われています。
景観を引き締める多種多様な建造物
小石川後楽園には、当時の藩主の思想や好みを反映した見どころや建物が随所に配されてきました。特に作庭初期の頼房、光圀の代には、他の庭園にはあまり見られない、日本と中国の風景を織り交ぜた和魂漢才の趣が取り入れられました。
和様の建造物には、大堰川にかかる渡月橋や清水観音堂跡といった京都の名所、茅葺の茶屋を模した酒屋の九八屋(くはちや)があります。大堰川の石組は3代将軍家光により決められたとされ、下流に行くほど間隔がまばらになることで、実際よりも奥行きを感じさせます。また、かつてはガラス障子を用いたびいどろ茶屋があり、後に朱子学者の林信篤により涵徳亭(かんとくてい)と名付けられました。現在の建物は、1986年(昭和61)年に再建され、集会所として開放されています。さらに庭園には珍しく稲田も存在します。これは光圀が次期藩主の妻に向けて、農民の苦労や農業の尊さを知ってもらうために造らせました。そのほかにも、将軍家から拝領した鷹を供養した瘞鷂碑(えいようひ)や、京都の愛宕(あたご)神社のような急勾配の石段を据えた愛宕坂などがあります。
唐様の建造物には、円月橋や西湖の堤、中国で学問を司る星とされる文昌星(ぶんしょうせい)の像を納めた八卦堂跡(はっけどうあと、震災で焼失)があります。斉昭が開設した弘道館(茨城県水戸市)の八卦堂は、こちらを参照して造られたものです。
大泉水の中央に浮かぶ中島は、古代中国で仙人が住むとされる蓬莱島です。四角い大石は徳大寺石と言い、作庭した徳大寺左兵衛に因んで名付けられました。存在感のある大石は、大泉水の景観を引き締めています。客人が来た際は舟を着けて上陸し、竜骨車(りゅうこつしゃ)で水を汲み上げて滝を流していたようです。また、庭園東側の延段(のべだん)は木曽路(中山道)を模していますが、丸い石と四角い石を組み合わせ、唐様に仕立てられています。
庭園をしばらく巡ると、唐門跡(2020年12月復元完了)、西行堂跡、清水観音堂跡、八卦堂跡など、建物の跡が多く残っていることに気づきます。光圀が建てた得仁堂のように現存する建造物もありますが、30棟ほどあった建物の多くは、震災や戦災で焼失してしまったそうです。
大名庭園は、大名が存在した江戸時代に成立しますが、その歴史は現代にまでつながっています。空白期間があるわけではなく、どのように生き残ってきたかを知ることが大切です。
後編では、明治時代以降の小石川後楽園の歴史と、同園の特徴である変化に富んだ地形について深掘りしていきます
構成:浅野靖菜
小石川後楽園
住所:東京都文京区後楽一丁目6-6
開園時間9:00-17:00(入館は16:30まで)
休園日:年末年始
入園料:一般300円、65歳以上150円
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index030.html
※開園情報はサイトにてご確認ください
櫛引典久(くしびき・のりひさ)
写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。
田中実穂(たなか・みほ)
東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。
講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/ をご覧ください。