――はじめにご経歴をお伺いします。プロフィールを拝見すると東京音楽大学卒業、とありますね。卒業後の進路はどう考えていましたか?
アーティストの仕事図鑑 #2 安野太郎
アーティスト・サバイバル・メソッド
No.0212019年、ヴェネチア・ビエンナーレにて、複数の作家とともに日本代表に選ばれ展示に参加した安野太郎さん。2021年4月から愛知県立芸術大学音楽学部にて教鞭をとりながら制作を続けるが、その道のりは決して平坦ではなかった。代表作は「ゾンビ音楽」。その名からどのような音楽を思い浮かべるだろうか。ゾンビという名とは裏腹に、生の力がみなぎる安野さんに、大学卒業からアーティストになるまでの道程を伺った。
音大を卒業し、メディアアートの聖地を経て、再び埼玉に
20代の頃は作曲の仕事を目指し、都内の音楽大学の作曲科を卒業しました。当時はあまり意識していなかったのですが、その頃はちょうど就職氷河期。ですが、もともと音大には就職を希望する人が少なかったです。僕もその一人で、就職を視野に入れていませんでした。といっても、卒業してすぐに作曲の仕事があるわけでもない。もう少し学びを継続させつつ、視野を広げようと岐阜県大垣市にある情報科学芸術大学院大学[IAMAS(イアマス)]に進学しました。
――IAMASは、メディアアーティストを多く輩出する大学院で知られています。音楽大学からIAMASを選んだのはなぜでしょうか?
アートの道に進もうと思っていたわけではなく、IAMASに作曲家の三輪眞弘先生がいたからというのが大きいです。学生時代に三輪先生の講演をきく機会があり、新たな視野がひらけた気がして刺激的でした。それで、三輪さんのもとで学びたいと思いました。実際、IAMASは美術や音楽といった芸術分野だけではなく工学分野を背景に持つ学生もいて、あらゆる専門性を持つ仲間のなかで学ぶことができました。
左:愛知県立芸術大学の研究室にて。右:同大学の電子音楽スタジオにある古いシンセサイザーの前で
撮影:杉野智彦
――IAMASを卒業したあとはどうされたのでしょうか?
一度、埼玉県の実家に戻りました。その頃はウダウダしていましたね(笑)。ただ一人で作品をつくっていても発表の場もないので、美術や演劇など他分野の方とコラボレーションしたりと、いろいろな活動に参加しました。そうこうしていると、横浜の寿町でゲストハウスの管理人をする代わりに、1日2食付きで無料で借りられる部屋があると聞いたのです。僕は生活のためにアルバイトをしながら制作に集中するのが難しいタイプで、生活の中心に作品づくりを据えたい。そのためには生きるためのランニングコストをなるべく削る必要があると考えていました。ここなら家賃と食費を極限まで下げられる理想的な環境だと思い、引っ越しました。横浜の寿町といえば有名なドヤ街と言われる場所ですが、僕はとくに抵抗を感じずに飛び込むことができました。
――実家住まいのままでも家賃は抑えられると思いますが、別の動機もありますか。
地域的なメリットが大きかったですね。実家は埼玉県の春日部市で、都心に出るにも時間のかかる場所。一方で、横浜はクリエイターも多く、独自のアートシーンも根付いている地域で魅力的でした。横浜には4~5年住んで、そのあとさいたま市に引っ越しました。春日部に比べるとさいたま市は都心へのアクセスがよくて。結局10年ほど住んでいました。「ゾンビ音楽」が生まれたのもさいたま市の自宅です。
ゾンビ音楽とは?
――いよいよ「ゾンビ音楽」について伺います。誕生の経緯から教えてください。
作曲家というと、仕事を依頼されて音楽をつくるイメージがあると思います。多くの委嘱(いしょく)を受けることが成功の条件でもある。ですが、僕はどちらかというと、誰にもお願いされていないのに勝手につくってしまう。というか、そうしたいタイプなのです。ただ、勝手に作曲しても演奏する人がいない。そしてなにより演奏家を雇うお金もない。そんなときに自動で演奏できる楽器に出会い「無いのなら自分でつくってみよう」と思いました。当時ファブラボ(工作機械などを備えた工房)のような場所も増えていたので、機械を自作するハードルも低くなっていました。
――自作した機械で、自作した音楽を奏でた。それが「ゾンビ音楽」のはじまりだったんですね。
その機械から生まれた音楽が破壊的で、自分でもおぞましいと思ったんです。それで「ゾンビ音楽」と名付けました。『フランケンシュタイン』の物語を聞いたことあるでしょうか。科学者のフランケンシュタイン博士が死体を墓場から出して人造人間をつくりだす物語ですが、博士はその怪物をおぞましく思いながらも、生涯をかけて向き合っていきます。その物語のように、つくり出したものを展開していこうと思ったんです。墓場から蘇った生ける屍ということで「ゾンビ音楽」と名付けました。
YouTube「『大霊廟I+II』(全編映像)」
――初めからリコーダーを使っていたのでしょうか?
リコーダーは、吹いて音を出し楽器のなかでも音を出すのことが簡単です。フルートやサックスなど音を出すのが難しい楽器で演奏するロボットもありますが、それだと機械のメンテナンスが大変で、音楽の創作に時間をさけないと思いました。
――「ゾンビ」と聞くと死者が蘇った姿ですので、「永遠」というニュアンスも感じます。
たしかに、音楽は必ず「始まり」と「終わり」があるものとどこかで思っていたのですが、ここ最近は美術シーンとも関わるようになり、作品に「始まり」と「終わり」をつくらなくてもいいのかもと思うようになりました。機械が止まれば演奏は終わるので、「ゾンビ音楽」は永遠ではありませんが、美術との関わりのなかでゾンビのような不死性を意識するようになったのかもしれません。
YouTube 「安野太郎のゾンビ音楽(ダイジェスト映像)」
サバイバルは終わらない
――近年の活動ですと、2019年の「ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展」での展示「Cosmo-Eggs宇宙の卵」の印象が大きいですが、2012年に「ゾンビ音楽」が生まれてから大きな転機となった出来事はほかにありますか。
2015年に参加した「フェスティバル/トーキョー15」での公演「ゾンビオペラ」は転機だったと思います。コンセプトと作曲という立場でオペラを制作しましたが、「ゾンビ音楽」の装置が舞台装置として再制作されて巨大化しました。その装置を用いて初めて美術館で展示したのが2017年、岐阜県美術館のコンペティションでした。それまでは美術館での発表は考えたこともなかったのですが、審査員に作曲家が入っていたので、自分にもチャンスがあるかも知れないと考えて応募しました。そのような経験があったので、ヴェネチア・ビエンナーレにも繋がったのではないかと思います。
――現在は愛知県立芸術大学で教鞭をとられていますね。
2021年4月から愛知県立大学音楽学部の作曲専攻作曲コースの教員になりました。常勤の仕事について、名古屋で新生活を始めていますが、サバイバルは終わったのかというと、終わっていなくて……。作家としても、大学で研究や教育をするということも、違うスタートラインからまた新たなサバイバルが始まったと思っています。これまでは自分のことや家族のことだけ考えていれば良かったのかもしれませんが、これからはそれだけでは不十分な感じがしています。関わる人もどんどん増えて、様々なリレーションシップが生まれた。自分だけでなく全体のことを考えるようになった。未来の事も考えなければいけない。取り組むこともどんどん増えています。とはいえ、基本的に自分の持ち場で頑張るということは今までと変わらないです。
左:新たな自動演奏の作品を制作中。右:大学の授業の様子
撮影:杉野智彦
――これからアーティストを目指す方々に向けて、メッセージをいただけますか。
つくることに関わる人は、仕事(依頼)の有無とかお金の問題など、自分の力ではなかなかどうすることもできない問題や、様々なめぐり合わせのタイミングなどがあって、これらがうまく回っていないと心折れることがあるかもしれません。しかし、忘れないでほしいのは、我々はもともと表現をしたいからやっていたはず(そうじゃない人もいるかもしれないけど……)。誰に頼まれたわけでもなく、ただ勝手にやっていたはずです。その思いを忘れないでほしいです。
Text:佐藤恵美
安野太郎
Taro Yasuno
1979年生まれ。作曲家。日本とブラジルのハーフ。代表作に、映像に映ったものを言葉で描写していくパフォーマンス「音楽映画」シリーズ、自作自動演奏機械の演奏による西洋音楽でも民族音楽でもない音楽「ゾンビ音楽」など。主な受賞に「第22回文化庁メディア芸術祭 アート部門審査委員会推薦作品」(2018年)ほか多数。主な展示に「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館」(2019年、イタリア)、「アンリアライズド・コンポジション『イコン2020-2025』」(2020年、アートフロントギャラリー・東京)ほか。2021年より愛知県立芸術大学音楽学部准教授。
http://taro.poino.net/