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清澄庭園〈前編〉

東京の静寂を探しに

No.008
大泉水の奥に見える涼亭 写真は櫛引典久『東京旧庭』(2020年、玄光社)より

写真家の櫛引典久さんによる写真と、東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さんの解説で、東京都内の庭園の魅力を楽しく学ぶ連載。


今回は、近代の大実業家・岩崎家ゆかりの清澄庭園を訪問しました。明治を代表する「回遊式林泉庭園」として知られ、全国から取り寄せた名石が織りなす景観の美しさは、近隣住民に愛される憩いの場となっています。


写真:櫛引典久

お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)

協力:公益財団法人東京都公園協会


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2022.08.03

自然が息づく庭園

今回は、清澄白河駅から徒歩3分とアクセスの良い、清澄庭園にやってきました。江戸時代の大名庭園をベースにしながらも、明治時代に完成をみた近代のお庭です。
敷地の一部は、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)の別荘跡だったと伝えられ、江戸時代には下総国関宿(しもうさのくにせきやど)の藩主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷でした。当時の庭園の様子を伝える資料はあまり残っておらず、1878(明治11)年、海運業で財を成した岩崎彌太郎がこの地を買い取ってから本格的な庭造りが行われます。
彌太郎は社員の慰安や賓客を接待する場として庭園を整備しました。そして1880(明治13)年、現在の清澄庭園、清澄公園、清澄公園児童公園を合わせた敷地を「深川親睦園」として公開しました。

清澄庭園 見取り図

幼少の頃から石好きだった彌太郎は、自社の汽船を用いて日本各地の名石を集め、墨田川から庭園に石を運び入れました。造園時の利便性も考慮して、この川沿いの地を手に入れたのでしょう。隅田川から水を引いていたため、かつて池には潮の満ち引きがあり、岸辺に近い水底には沈んだ飛び石も見えます。

アオサギとカモ(左)。水際では、野鳥や動物たちを間近で観察できる
『東京旧庭』より

海や川に近い立地ということもあり、鯉や亀、野鳥など、さまざまな生き物が生息しています。
センター長の滋野敦子さんによると、バードウォッチングに訪れる来園者も多いとのこと。
「水際まで近付けるので、泳ぐ鯉の様子や亀の甲羅干しを間近でみることができます。野鳥の種類は季節によっても変わりますが、アオサギは常にいますね。」
私もカワウをみたときには驚きました。東京で大きな鳥をみる機会は、なかなかありませんからね。

右から、清澄庭園サービスセンター長の滋野敦子さん、副センター長の井上直生さん、話者(東京都江戸東京博物館 田中実穂)

岩崎家のおもてなし

1885(明治18)年に、深川親睦園は弟の彌之助に引き継がれます。彌之助は会社の発展に伴い、イギリスの建築家ジョサイア・コンドル設計による赤レンガ造りの洋館と、和風建築の日本館、ふたつの迎賓館を園内に建設しました。1909(明治42)年には英国陸軍元帥キッチナーを歓待するため、彌太郎の長男・久彌により、数寄屋造りの涼亭が建てられました。震災と戦災を免れた涼亭は、全面改築工事を経て2005(平成17)年に東京都選定歴史的建造物に選定されています。
明治から大正へと時代が移る頃には、清澄親睦園は「清澄園(せいちょうえん)」と称し、雄大な景色と建物を備えた社交場として、その名声を高めました。

かつての涼亭は園内で唯一、関東大震災と東京大空襲を乗り越えた
『東京旧庭』より

清澄庭園は、泉水の周囲を散策しながら、特に陸地の造作を楽しむ回遊式林泉庭園です。松と石の調和が中心で、花の色味がアクセントとなっています。
一番高い築山は富士山に見立てられ、現在、頂上には溶岩が積まれています。彌之助の代には、来客に船を出して池から庭を眺め、また山に登って庭を一望するといったおもてなしが行われていました。

富士山(奥)と枯滝(手前)

富士山の麓には、白い筋の入った青い石と小さな玉石を組み合わせて、枯滝が造られています。私が初めて清澄庭園を訪れた時、「なぜ石の上に石が乗っているのだろう」と思ったのですが、これは玉石で川の流れを、大岩で滝を表現しているのです。
副センター長の井上直生(なおお)さんによると、枯滝では数年に一度、すべての玉石を回収しタワシで表面を磨いて据え直しているのだそう。スタッフの皆さんの尽力によって、この美しい景観が保たれているのですね。

私の庭園から公の庭園へ

大正時代になると、人口の増加に伴い、人々が日々の疲れを癒やし、子どもたちが安心して体を動かせる場所が求められるようになりました。
久彌は「我々は国や社会のおかげで財を成したのだから、それを還元しなくてはならない」と考え、1921(大正10)年に庭園の一部を、テニスコートや砂場などを備えた「清澄遊園」として開放しました。この場所が現在の清澄公園児童遊園です。

南側の自由広場に咲くハナショウブ
『東京旧庭』より

残りも東京市に寄付する予定でしたが、1923(大正12)年、関東大震災が起こります。建物は涼亭を残して全焼しましたが、庭園の木々が防火林となって延焼を食い止め、避難者約1万人の命を救うことができたのです。
自慢の石の数々は、石組が崩壊するなどの被害が出たものの、大事には至りませんでした。

一面焼け野原になった庭園をみて、久彌は庭園の一般開放に消極的になります。しかし、東京市の公園課長を務めていた井下清(いのしたきよし)は、素晴らしい庭園を後世に残すべきだと、復興に奔走しました。
その甲斐あって、破損の少なかった東側、総面積37,434.32㎡の土地は、1932(昭和7)年に「清澄庭園」として開園しました。西側は、1977(昭和52)年に「清澄公園」となり、現在に至ります。

冬の雪吊りの様子
『東京旧庭』より

園内を巡っていると、樹木の背が低いことに気が付きました。理由を伺うと、今ある景観を維持し、未来へ継承することを第一に整備されているのだそうです。
井上副センター長は「古写真には大きな松の木もありましたが、震災後は同じような松の木は手に入らなかったのだと思います。その後、当時の東京市の手によって岩崎家のグランドデザインは引き継ぎつつ、現実的なラインで復興したのでしょう」とおっしゃっていました。

後編では、彌太郎が選び抜いた名石を鑑賞してまいりましょう。

>>後編に続く

構成:浅野靖菜

清澄庭園
住所:東京都江東区清澄3-3-9
開園時間9:00-17:00(入館は16:30まで)
休園日:年末年始
入園料:一般150円、65歳以上70円
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index033.html
※開園情報はサイトにてご確認ください

櫛引典久(くしびき・のりひさ)
写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。

田中実穂(たなか・みほ)
東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。
講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページをご覧ください。

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