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飯田橋〈前編〉 age4-12

石川直樹 東京の記憶を旅する

No.005
飯田橋 2015/12/9

17歳でのインド一人旅を皮切りに、世界各地の極地や高峰、海原へと飽くなき好奇心で分け入り、その記録を写真と文章で紡ぐ石川直樹さん。東京は石川さんが生まれ育った街であり、現在も旅の発着点の街。記憶の時系列で東京各所を辿ります。


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2012.11.05

Photo & text:石川直樹[いしかわ・なおき]

天正18(1590)年、徳川家康が江戸城入城時、この地の飯田喜兵衛という名主に界隈の案内を頼んだことから飯田町と命名。江戸時代は江戸城内濠と外濠に囲まれ、旗本屋敷や町人住宅、寺社などがあった。明治14(1881)年、町の北側に「飯田橋」が掛けられ、昭和41(1966)年には橋の名がそのまま町名となって、現在に至る。谷と高台の高低差が大きく、急勾配の坂が多い独特の地形の合間には、石川直樹が幼稚園から高校までを過ごした学校がある。この街の周辺を、記憶の引き出しをたどりながら歩いた。
東京メトロ有楽町線飯田橋駅の飯田橋方面改札を出て、駅直結のビル〈飯田橋セントラルプラザ・ラムラ〉付近の出口から地上に上がり、目白通りへ。JR総武線のガードをくぐって九段下方向へ進み、途中で右に折れると、坂になる。少し登って今度は左に折れ、直線の長い坂(二合半坂)をさらに進むと、左手に暁星小学校の正門が見えてくる。

3-1――坂

暁星小学校前の坂道は、大人になってからも夢によく出てきます。怖い夢でも嬉しい夢でもなく、坂道を見上げて歩いている、そんな夢ですね。学校から出て、この坂道を上るとどこか別の場所に通じているような感覚がこども心にあって、それが今も離れないのかもしれません。当時は隣接していたリセ・フランコ・ジャポネ(2012年北区に移転)という外国人学校の生徒さんたちと会うこともあり、囲われた学校の一歩外は見知らぬ世界が広がっていた。自分にとって、この坂道が内と外を繋ぐ境界になっており、今も記憶の底から離れずにいます。

飯田橋2015/12/9

3-2――満員電車

3歳くらいのときに初台から板橋の小竹向原に引っ越して、暁星学園の幼稚園に通い出しました。幼稚園は飯田橋と九段下のあいだにあり、小学校、中学校、高校も隣接しています。ここに幼稚園から高校まで、合計15年も通っていました。

一人で電車通学をするようになったのは、小学校1年のときからです。小竹向原から飯田橋まで、地下鉄有楽町線に乗っていく約20分のルートでした。特に朝は通勤ラッシュのピークと重なっていて、小学校低学年のときは大人の腰あたりくらいの身長だったぼくは、大人たちのあいだで押しつぶされそうになりながら本を読んでいました。

朝早い時は座れることもありましたが、立っていることのほうが多かったと思います。身体のサイズが小さいので、大人が身動きできないなかでも、こどもだけが入り込める隙間があって、そこに立ってしまえば自分だけの空間を作ることができました。扉の両脇のスポットが読書に最適で、そこに入りこむことができたら、本を広げることは大変ではなく、本の中の世界にダイブすることができます。

3-3――本

本は、祖父が買ってくれたこども向けの世界文学全集を繰り返し読んでいました。他にも、江戸川乱歩の『少年探偵団』や『黄金仮面』などのシリーズ、那須正幹の『ズッコケ三人組』なども好きでしたね。『コロコロコミック』や『ボンボン』などのマンガは家の中で読み、電車の中でも文字の世界に熱中していました。

なかでもくり返し読んだのは、こども向けの全集に入っていた『ロビンソン・クルーソー』『トム・ソーヤーの冒険』『十五少年漂流記』『不思議の国のアリス』などです。意識していたわけではありませんが、この頃から、探検や冒険の話にひかれていたようです。

3-4――電話のおじさん

小学校の通学路を今たどってみると、公園や銀行など、通っていた当時のままのところもあれば、消えていたり、大きく面変わりしているところもありました。

たとえば東京メトロ飯田橋駅の飯田橋方面改札は、改装工事前は今よりもっと奥の方にあって、その右側に、緑の公衆電話が三つ設置されていました。

下校時に駅に着くと、その電話にテレホンカードを入れ、家にいる母親に「これから電車に乗るから」と連絡していました。小竹向原の駅に着く頃に、母が車で迎えに来てくれるのです。

公衆電話の横には、いつも同じおじさんがぼんやりと座っていました。今、東京の鉄道駅構内からホームレスはすっかり排除されていますが、昔は飯田橋駅にも定位置で生活している人が何人かいたのです。編んでまとめた長い髪は、ホコリなどでバリバリの板状に固まり、あたりは小便の臭いが漂っていました。ぼくは朝も夕も毎日その人を横に見ながら改札を出這入りしていた。そして、電話をかけるときには必ず視界に入っていました。

あえて近づこうとは思わないけど、怖くもない。「お風呂に入ってないんだろうな」と思うくらいで、ネガティブな感情はありませんでした。ホームレスの人には不思議な親しみがあって、今も見かけるとつい近寄って行ってしまいます。飯田橋駅の改札を通ると、公衆電話の脇にいたあのおじさんは、今はどこに行ってしまったんだろう、とよく思います。改札周辺は当時の面影がすっかりなくなってしまいましたけれど。

飯田橋 2015/12/9

石川直樹(いしかわ・なおき)

1977年東京生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。最近では、ヒマラヤの8000m峰に焦点をあてた写真集シリーズ『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』(SLANT)を4冊連続刊行。

石川直樹さん近影

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