7-1――悪い仲間
九段下〈中編〉 age13-18
石川直樹 東京の記憶を旅する
No.009Photo & text:石川直樹[いしかわ・なおき]
九段坂を下りきり、首都高速と神田川を越えたあたりから、ほどなく神保町に入っていく。ここも中学・高校生時代の石川直樹が放課後に足を伸ばしてあてもなくさまよった場所の一つだった。神保町は、言わずと知れた古書店や大型書店のひしめく日本有数の書店街であり、同時に、登山・アウトドア用品の大小の専門店も軒を並べている。この街には偶然にも、のちの石川の人生と大きな関わりを持つものたちが詰まっていた。
中学から高校の頃は「当たり前のように大人たちから押し付けられる価値観を何も考えずに受け入れて生きるのはどうなんだろう」という気持ちをくすぶらせていました。陸上部の不良な先輩たちや、同学年のちょっと悪い仲間のグループと仲良くしていた時代です。といっても僕自身は、髪を染めたりピアスのための穴を耳に開けたり、煙草を吸ったりするようなこともありませんでした。煙草は中学三年のときに吸ってみたものの、まったく美味しいと感じなかった。お酒も飲んでみましたが、やはり美味しいと思わなかった。さまざまなものへの反抗心と同時に「見かけだけワルぶるのはガキっぽい」という気持ちもあり、煙草も酒も美味しいと思ったら続けたかもしれませんが、そう思わなかったので単純にやりませんでした。最初はたいしてうまくもないだろうに見栄でそういう振る舞いをする同級生に、全然同調できなかったんです。もちろん親や教師に暴力を振るうなどということもないし、わかりやすい意味での反抗期は一切なかったものの、緩やかにあらゆることに反抗していました。親や先生ばかりでなく、悪ぶる先輩にも、いい子ちゃんの同級生にも反抗していたのかもしれません。当時はインターネットも普及しておらず、テレビなどのメディアで流される情報に対しても、常に斜に構えていた。そんな、ある意味では、最もやっかいな中高生だったように思います。
7-2――ヨシオ君の店
近くに女子校がいくつかあり、中でもおしゃれで異性にも社交的な女の子たちを誘って、仲間たちと飲み会みたいなことをし始めたのも、中学三年から高校にかけてです。といっても所詮は男子校のガキンチョなので、そこまで進んだ恋愛に至ることはなかったです。気を持ってくれた子と駅まで一緒に帰るとか、バレンタインデーにチョコをもらって、それを同級生に隠しつつもちょい見せして自慢する、といった程度のもので、今から思えば「何してるんだか」という程度の他愛のないものでしたが……。
女の子たちとの飲み会の会場にもなり、男友達だけでもよく行っていた店の一つに、当時でもかなり古い、つぶれかけた喫茶店がありました。九段下と神保町の間あたり、神田川沿いの路地の地下にあったその店の、正確な店名も今は忘れてしまいましたが、経営者は、高校生の目には60~70代とおぼしき老夫妻で、ご主人のほうをぼくたちは「ヨシオ君」と呼んでいました。おそらく「ヨシオ」という名前だったんでしょう。
学校帰りに店の階段を降りてドアを開けると、だいたいヨシオ君と奥さんが店の奥で暇そうにしていました。お客さんがいることは滅多にありません。すでに酔っているヨシオ君が「おー」とかなんとか言って迎えてくれて、「ビッグマン」というビッグサイズの安いボトル焼酎を、お湯割りで飲んでいて、ぼくたちにも勧めてきます。仲間の一人がその焼酎につきあいながら、みんなで思い思いの飲み物を注文し、ぼく以外の仲間は煙草も吸いながら、馬鹿話から真剣な話まで、延々と興じていました。
先日、店のあった付近をうろうろしてみましたが、さすがにもうなくなっていました。ヨシオ君夫妻の消息も不明です。元気でいてほしいけれど、20年以上前のあの頃から体調が悪そうだったので、ちょっと心もとないものがあります。飲んだくれのヨシオ君と、それを怒るでもなく淡々と接していた奥さんとが、二人でやっていた店の様子を時々思い出します。
7-3――山に行く
そんな店に通う悪いグループのあいだに、どういうわけか、「山に行こう」という話が出始めます。それも中学3年から高校の頃でした。
高校には山岳部もあったのですが、部員たちはおとなしいガリ勉の集まりという雰囲気で、ぼくらのグループとは反りが合わなかったし、ぼく自身もそのまじめな空気を敬遠していました。
仲間と初めて経験した登山が奥多摩の本仁田山という低山で、それから週末や長期休みの前に自主的に計画を立て、奥多摩や奥秩父を縦走したり、河口湖でキャンプをしたりするようになりました。同時に渓流釣りにも興じました。山やアウトドアというと健康的で健全なイメージがあると思うのですが、ぼくたちにとっての山は、学校で禁止されている煙草を吸ったり酒を飲んだりバカ話が際限なくできる一種の解放区のような場所だったんです。
登山道具はホームセンターで買ったペラペラのテントや寝袋を使用していましたが、そのうち、専門店でいいものを少しずつ揃えていくようになっていきました。今に繋がる登山の原点が、この頃の体験です。
7-4――本と山道具の街
放課後に、神保町に向かうことが多くなりました。古書店を回って本の海をさまよう日もあれば、イシイスポーツ、さかいやスポーツといった登山用品の専門店をまわって山道具の品定めをしていました。お金がなかったので、何も買えない代わりに、万が一か買えるときがきたらこれを買おう、と虎視眈々と装備を見定めていました。一通り店を回ったあとは、喫茶店に入って買った古本などをじっくり読む。それがお決まりのコースでした。
ぼくが高校生の頃はインターネットもなく、古本でも山道具でも、中身を知りたければ店に出掛けて直に手に取ってみるしかない時代でした。でも、その手間があったからこそ得られた充実感も大きかったのではないでしょうか。古書店の片隅で『ナショナルジオグラフィック』や『GEO』などのバックナンバーなどをじっくり立ち読みしていた時間は、今思えば貴重だったなと思います。
7-5――本から生まれた縁
本は古書、新刊問わず興味の赴くままに読んでいましたが、物語よりはノンフィクションや実用書、グラフ誌などを好んで手に取っていました。中学生のときは、司馬遼太郎さんの小説や、椎名誠さんの旅行記、そしてカヌーイストの野田知佑さんの著作などに大きな刺激を受けました。
高校生になると、岐阜の長良川で河口堰建設を巡る環境問題が勃発し、野田さんも作家活動のかたわら、反対運動の旗手としてあちこちで発言していました。上流から下流まで一気に下ることができる日本の一級河川は、釧路川と長良川と四万十川だけであること。堰ができると流れが止まってしまうわけで、遡上する魚のための側道などをいくら人為的に設けても生態系への影響は免れないこと。そんなことを野田さんの本をきっかけに知るようになり、環境問題にも関心を持ち始めます。山や川というフィールドを好む者として義憤に駆られ、高校の制服姿のまま週末に岐阜まで一人で行って、反対運動にも参加しました。
制服姿のぼくが珍しかったのか、野田さんが気に留めてくれ、「何かあったら電話しろよ」と連絡先を教えてくれました。それが、野田さんとの最初の縁でした。
7-6――野田さんとの会話
椎名さんも野田さんも著作の中で、受験勉強なんて将来はクソの役にも立たないというようなことを、言葉を変え、くり返し書いていました。ぼくもその影響をもろに受けて、「日本の受験制度にしたがって親や先生の言いなりになって暗記に励むのは愚の骨頂だ。本を読んでいたほうがマシだろう」と、勉強は完全に片手間になっていきました。そんな調子だったので大学受験をしたものの全部不合格で、そのことを野田知佑さんに電話で報告したら「じゃあお前ちょっと鹿児島に遊びに来い」と言われ、一人旅に出ました。
野田さんに言われた通り、鹿児島の錦江湾にあった磯海水浴場までテントを担いで行ったんです。しばらく砂浜でテントを張って過ごし、数日後に野田さんに会うことができました。
「大学に全部落ちて、今後どうすればいいか悩んでいます」と告げると、将来の夢を聞かれました。「新聞記者やジャーナリストなどになりたいです」と答えると「だったらお前、大学へ行け。行ける環境にあるなら行っておいたほうがいい」とぶっきらぼうに言われました。
先生や親に同じことを言われても聞く耳を持たなかったと思いますが、野田さんの説得力は大きく、「こんな不良な大人が『大学へ行け』というくらいだから、やはり行ったほうがいいんだろう」と、翌年一浪して早稲田大学に入ったのでした。
石川直樹(いしかわ・なおき)
1977年東京生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。最近では、ヒマラヤの8000m峰に焦点をあてた写真集シリーズ『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』『K2』(SLANT)を5冊連続刊行。最新刊に写真集『国東半島』『髪』『潟と里山』(青土社)、『SAKHALIN』(アマナ)がある。