11-1――大学と通学路
高田馬場・早稲田〈前編〉 age19-23
石川直樹 東京の記憶を旅する
No.013Photo & text:石川直樹[いしかわ・なおき]
越後高田藩主領地にあった馬場に由来するといわれる高田馬場。神田川から水を引いた田が多くあり、そこで凶作に備えて早生種のコメを作っていたことからこの名がついた早稲田。隣接するこのエリアは、私学の雄・早稲田大学を擁する都内有数の学生街だ。ここに入学した石川は、大学生活の傍で世界の高峰に挑みながら、多忙な毎日を過ごすことになる。本格的な登山を始めるきっかけとなったできごとや学生生活の記憶を、当時の通学路を歩きながら掘り起こす。
JR高田馬場駅前と早稲田大学の間のルートを、ほぼ卒業(2002年)以来、久しぶりに行ったり来たりして歩いてみました。
早稲田大学は校舎が全面的に改築され、昔のごみごみした猥雑感が一切なくなっていました。昔は廊下の数メートル間隔に置かれていた灰皿は消え、道を埋め尽くしていた政治系サークルの立看板もかなり少なくなり、文学部のスロープはピカピカに生まれ変わっていて、時の流れを感じました。
当時の通学ルートは、九段下駅で半蔵門線から東西線に乗り換え、早稲田大学文学部のある早稲田駅で降りて大学へ。そして帰りは大学から早稲田通りの1キロちょっとの道のりを、ぶらぶらと歩いて高田馬場駅へ向かうのが定番でした。高田馬場駅周辺も、やはりあちこちの様変わりぶりに驚きつつも、池袋っぽいところもあれば新宿っぽいところもある、この街に昔から感じていた一種独特な雰囲気は今も残っていました。
11-2――本格的な登山の世界へ
1998年、大学1年の20歳のときに、冬のデナリ(北米大陸最高峰、標高6,190メートル)へ行くチャンスがやってきました。日本山岳会が編成する「気象観測機器設置登山隊」の、荷物運びの学生ボランティアに応募したのです。
安い費用で本格的登山遠征に参加できましたが、通常は大学山岳部の部長クラスしか行けない不文律もありました。しかし、そこを熱意で頼み込んで行かせてもらえることになりました。
当時、ユーコン川を一人で下ったりはしていたものの、ここまで難易度の高い山の実績はなく、直前に富士山で雪上訓練をしただけで現地入りしました。呼吸の仕方が全然つかめず、初めて経験する高山病の頭痛にずっと悩まされながらの登攀(とうはん)でした。状況は過酷で、同行した他大学のベテランの先輩の一人も、肺水腫で途中下山することになってしまいました。頭が痛い、もうやめたいとばかり思いながら、それでもなんとかついて行き、どうにか登頂することができたのでした。
ぼくもいつリタイアしてもおかしくない状況でしたし、そのダメージ度合いによっては、二度と挑戦はできなかったかもしれません。しかしあのとき背伸びして背伸びして、なんとかギリギリで頂上に手がポチッと届いたから今がある、と思っています。その後の登山の技術も機会も、気持ち的なリミッターという意味でも、いろいろなことが飛躍的に伸びた経験でした。
これ以後、在学中に次々と、世界7大陸最高峰を目指して出かけて行くことになります。さっそく翌年の1999年、ヨーロッパ最高峰のエルブルース(5,642メートル)、アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5,895メートル)に、続けて登頂を果たしました。
11-3――大学生活
人生で一番海外に出ていた時期だったので、大学には、出席しなくてはいけない授業に本当にギリギリの日数だけ行くという感じで、サークル活動の参加も特にしていませんでした。
でも、角幡唯介(かくはた ゆうすけ)さん(のちにノンフィクション作家・探検家)が部長をしていた「探検部」の部室にだけは、入学時にふらりと訪れたのをきっかけに、ときどき馬鹿話をしに行っていました。
探検部は歴史のある部ですが、角幡さんの時代はコックリさん、UFO召喚、人喰いパンダ探しの中国遠征などに真面目に取り組んでいました。面白い人たちだと思ったものの、結局ぼくは参加せずじまいでした。結局どこかに所属するより、一人で動く自由のほうを選ぶタイプなんですね。それでも、角幡さんや探検部の連中とは妙に気が合っていました。角幡さんはその後も自身の方向性を貫き、ネパール雪男捜索隊に入隊した経験を書いた作品でノンフィクション作家として世に出ることになります。
そういえば在学中は、ちょうど広末涼子さんが入学した時期とも重なっていて、ときどき学内で人だかりがしているのを見かけました。今だったら見に行っていると思いますが、当時は「そんなミーハーなことできるか!」と意固地になって通り過ぎていました。
11-4――帰りのルート
授業が終わると、大学周辺から高田馬場までの間をぶらぶら歩き、古本屋に立ち寄りながら帰っていました。ネット古書店が普及し出す直前の頃、古本屋めぐりはまだ必須の習慣で、1冊100円の店頭セールから店の奥まで、さまざま見て回ったものです。そんなお店のどこかで、あるとき東松照明の『太陽の鉛筆』(1975年、毎日新聞社)が3万円で出ていたのを見つけ、思い切って買ったのも忘れられない思い出です。
在学中はしょっちゅう山に行っていたので、山道具の店めぐりも欠かせませんでした。高田馬場駅近くに今もある〈カモシカスポーツ本店〉や、当時〈BIGBOX〉にあった登山用品店などが行きつけで、アルバイト代を貯めては、こういったところで山の道具を買い漁っていました。
早稲田通りの名画座〈早稲田松竹〉にもよく行っていました。当時は映画を見ようと思えば映画館かレンタルかの二択でしたから、お金がなく時間はある学生には、封切り終了作や過去の名作が二本立て、三本立て、オールナイトなどで観られる名画座はありがたいものでした。今現在は早稲田松竹がどうなってるのかも気になっていましたが、健在で嬉しい驚きでした。
古本、山道具、ときどき映画。こうしてみると中学高校時代の放課後、神保町や御茶ノ水(古本と山道具)、飯田橋(名画座〈ギンレイホール〉)へ出かけていた行動パターンと、あまり変わっていませんね。
※早稲田松竹は施設工事を行い、2019年1月にリニューアルオープン。
石川直樹(いしかわ・なおき)
1977年東京生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。
2020年『まれびと』(小学館)、『EVEREST』(CCCメディアハウス)により日本写真協会賞作家賞を受賞した。