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浜離宮恩賜庭園〈前編〉

東京の静寂を探しに

No.001
浜離宮恩賜庭園のメインとなる建造物、中島の御茶屋。都会のオアシスには水鳥も多く憩う。 写真は櫛引典久『東京旧庭』(2020年、玄光社)より

日本の美意識や季節ごとの異なる美しさに触れることができるのが、日本庭園です。東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さんの解説と、写真家の櫛引典久さんが撮影した四季折々の庭園の写真で、歴史的変遷とともに東京都の庭園の魅力を深掘りする新連載を始めます。第1弾は浜離宮恩賜庭園です。


写真:櫛引典久
お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)
協力:東京都公園協会

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2020.10.14

庭園界の国宝という唯一無二の存在

新橋駅や汐留駅で下車し、高層ビルや高速道路を越えると見えてくる緑地が、浜離宮恩賜庭園(以下、浜離宮)です。浜離宮は、「庭園界の国宝」と呼ばれています。庭園は文化財の分類では記念物に当たり、そのなかでも重要なものは名勝や史跡、さらに重要性の高いものは特別名勝・特別史跡の指定を受けます。浜離宮は特別名勝と特別史跡の両方の指定を受けている庭園です。つまり、景観の美しさと歴史的価値の両方を備えているのです。この両指定を受けているのは、全国で10カ所しかありません。東京都では浜離宮と小石川後楽園、京都府では鹿苑寺(金閣寺)庭園、慈照寺(銀閣寺)庭園、醍醐寺三宝院庭園、平城京左京三条二坊宮跡庭園の4カ所、あとの4カ所は岩手県の毛越寺庭園と福井県の一乗谷朝倉氏庭園、奈良県の平城宮東院庭園、そして広島県の厳島です。浜離宮が国宝級の庭園と言われる所以は、いくつもの特徴的な造作と由緒正しい経歴、それを守り伝える人々の熱い想いと努力にありました。

浜離宮恩賜庭園 ⾒取り図

一般的な大名庭園は、池の周囲に平らな場所や築山(つきやま)を配置した池泉回遊式庭園という様式です。浜離宮の場合は、南側が池泉回遊式庭園、北側が芝生の広場といった二部構成になっており、面積も250,215㎡、東京ドーム約5個分と広大な面積を誇ります。これは、かつては北側に建物群、南側に庭園を備えていた名残です。

海水を引き入れた潮入の池があることも珍しく、海に面した立地を生かした独特の景観をつくり出しています。一級造園技能士の資格も持つ浜離宮恩賜庭園サービスセンター長の正田裕之さんの話では、潮の満ち引きによる水位の変動で、庭園の景観が全く変わるそうです。干潮の時期は内堀の底が見えてしまうくらい干上がり、満潮時は溢れんばかりの水が流れ込みます。水門の管理は、ウェブサイトで東京湾の水位を確認して行います。これは景観を変化させるだけでなく、水質管理にも役立っているそうです。

保養や娯楽の場である庭園は、施主の思想や主義主張が色濃く反映されるものです。浜離宮の面白いところは、単なる庭園に留まらない多彩な役割を担ってきた、それゆえのおおらかさにあります。

遊芸と武芸、おもてなしの場

浜離宮の土地は江戸時代に埋め立てられ、鷹狩りを好んでいた初代将軍の家康の鷹場として主に使われました。それが3代将軍家光の息子・綱重に下賜されます。綱重は甲府を治めていたので、海に面している甲府のお殿様のお屋敷「甲府浜屋敷」と呼ばれていました。綱重の息子(のちの6代将軍家宣)が5代将軍綱吉の養子に入り、将軍ゆかりの地となったことで、1704(宝永1)年に「浜御殿」となります。この6代将軍家宣の代に本格的な整備が開始され、庭園を管理する「浜御殿奉行」という役職も置かれました。

樹齢300年と⾔われる6代将軍家宣ゆかりの⿊松
『東京旧庭』より

8代将軍吉宗の時代には、広大なスペースの実用的な利用が図られます。具体的には馬場の設置や水練の実施、飢饉の救世主と言われたサツマイモの栽培、機織りや食塩製造などです。江戸城の出城という役割から、備蓄倉庫などもありました。多面的な使われ方をしていたのですね。

一方で吉宗は好奇心旺盛な人で、将軍在職中に「ゾウが見たい」と言い出しました。そこでベトナムから連れてきたゾウを、現在の花木園のあたりで飼育していたこともあります。

歴代将軍のなかでも一番浜御殿に通っていたのが、11代将軍家斉です。そもそも在職期間も50年と長かったのですが、その間248回も訪れていたと記録されています。この時に、中島の御茶屋、松の御茶屋、燕の御茶屋、鷹の御茶屋が建てられました。鷹の御茶屋には、鷹狩り用の鷹を休ませるスペースがあります。茅葺の農家を模した造りで、将軍にとってはこのような鄙びた風情がある方が好まれたようですね。

家斉が浜御殿を訪れた248回中の166回は、この鷹狩りが目的でした。新銭座鴨場(しんせんざかもば)と庚申堂鴨場(こうしんどうかもば)は、鷹を使って鴨猟をするための施設です。鴨場に細い水路のようなものがいくつも伸びていますが、これは引堀と言って鴨を誘導するための場所です。鴨猟は、まず囮となるアヒルを同じ池で飼っておきます。覗き穴のついた小屋の脇にある板を木槌でコンコンと叩くと、餌をもらいにアヒルが水路に入り込んできて、鴨もそれに続いて入っていきます。水路の両脇に待ち構えていた人間に鴨が驚いて飛び立ったところを、鷹を放って仕留めます。明治以降は、叉手網(さであみ)を使って捕獲していました。

鷹の御茶屋
『東京旧庭』より
松の御茶屋の⾵流な円窓
『東京旧庭』より

幕末になると、黒船が来航するなど外交への不安から、浜御殿には海に面した出城として沿岸砲など海防設備が整えられました。明治時代に入ると、将軍家所有の浜御殿は皇室所有の浜離宮となります。

浜離宮には、外国人を迎える施設として1869(明治2)年に延遼館がつくられました。アメリカ元大統領グラントをもてなし、中島の御茶屋で明治天皇と会見した記録が残っています。その延遼館も、現在の帝国ホテルの近くに鹿鳴館が建てられたことでその役割を終え、1889(明治22)年に解体されます。

度重なる存亡の危機

このように、浜御殿および浜離宮は時代の要請により役割を変えていきましたが、庭を大きく削ったり景観を損なったりといった根本的な変更は加えられていません。しかし明治以降は、浜離宮の広大な土地を活用する話も出ていたようです。1921(大正10)年には、当時日本橋にあった魚市場の移転地として払い下げの話が浮上しましたが、1930(昭和5)年に魚市場は築地に移ります。1951(昭和26)年には、戦後の経済復興に際して、浜離宮の敷地を貫くように道路をつくる話が持ち上がります。これには大反対が起こり、4年後に廃案となりました。

また、自然災害や戦災を被ることもありました。1923(大正12)年の関東大震災では、大手門や橋が焼失、現在の大手門橋は1924(大正13)年にできたものです。その後、1944(昭和19)年には太平洋戦争時の空襲で、中島の御茶屋も失われてしまいました。1983(昭和58)年に中島の御茶屋が再建され、他の3つの御茶屋も平成の時代に復元されます。

さまざまな危機をくぐり抜けてきた浜離宮は、1945(昭和20)年に皇室から東京都に下賜され、浜離宮恩賜庭園が誕生しました。

広⼤な回遊式庭園として、歴史的な景観の美しさをいまに残す
『東京旧庭』より
浜離宮恩賜庭園内の中島の御茶屋に⽴つ、東京都江⼾東京博物館学芸員の⽥中実穂さん。東京湾から潮⾵や船の汽笛も届く

現代に即した維持管理と⽂化的資源の活⽤

現在、浜離宮では庭園の美しい景観や貴重な史跡を守りつつ活用していくために、多彩な取り組みを行っています。

まず、造園技能士という国家資格を持った造園職による質の高い維持管理です。2020年4月より自動草刈機を導入していますが、松の根本など人間でないと難しい箇所は手作業で行います。浜離宮のような公の庭園の存在は、雪吊りといった継承していくべき造園技術を守る活動にもつながっています。

また、園内の歴史的資源を積極的に活用しています。中島の御茶屋ではお休みどころとして抹茶を提供し、鴨場では鷹匠を呼んで鴨猟を再現するイベントを開催しています。

文化的観光拠点としても、その魅力を大きく打ち出しています。日本文化に気軽に触れられる日本庭園は、外国人に人気の観光スポットです。新橋、築地、銀座が近い土地柄もあり、浜離宮の来園者の3割は海外の方だそうです。そのため庭園ガイドやTwitterでは、日本語だけでなく英語でも庭園の魅力を紹介・発信しています。

離宮だった歴史があるとは言え、このように広大な都心の一等地がよく残ったものだと感心します。並大抵の努力ではなかったでしょう。

例えば資料を後世に残していくには、ずっとしまっておくことが一番です。しかし大事に囲い込んでばかりでは、その魅力や価値を知ってもらえないという矛盾があります。広義の芸術作品と言える庭園は、常に野外にあり、自然や人々に開かれています。自然事象に対応し、人々を迎えつつ保存していくという大変なご努力に頭が下がります。

現在の浜離宮恩賜庭園は、数百年をかけてつくり上げられた作品です。その作品を、質を保ったまま残していくだけではなく、現代に合わせた形で活用しているからこそ、身近な存在として魅力や大切さを理解してもらえています。現代に生きる庭園として可能性を見出していく、浜離宮恩賜庭園の今後が楽しみですね。

後編では、浜離宮恩賜庭園の位置する汐留・新橋地域の歴史的変遷を見ていきましょう。

⽥中さん(左)と、浜離宮の⾒どころや取り組みの数々を解説いただいた、浜離宮恩賜庭園サービスセンター⻑の正⽥裕之さん(右)

構成:浅野靖菜

浜離宮恩賜庭園
住所:東京都中央区浜離宮庭園1-1
開園時間9:00-17:00(入場は16:30まで)
休園日:年末年始
入園料:一般300円、65歳以上150円
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index028.html

櫛引典久(くしびき・のりひさ)

写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。

田中実穂(たなか・みほ)

東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。

講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/ をご覧ください。

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