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向島百花園

東京の静寂を探しに

No.007
写真は櫛引典久『東京旧庭』(2020年、玄光社)より

写真家の櫛引典久さんによる写真と、東京都江戸東京博物館学芸員の田中実穂さんの解説で、東京都内の庭園の魅力を楽しく学ぶ連載。これまでご紹介した大名庭園とは異なり、今回の向島百花園は、江戸の一商人と文人たちがつくり上げた庭です。野の草花が生い茂る10,885㎡の園内は、大規模な庭園にも引けを取らない見所の多さと庭にかかわる人たちの熱い想いに満ちていました。


写真:櫛引典久
お話:田中実穂(東京都江戸東京博物館学芸員)
協力:公益財団法人東京都公園協会

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2022.03.22

立役者は江戸の文人たち

国指定名勝・史跡にも指定されている向島百花園を開いたのは、江戸時代の文化・文政年間に骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)です。歌舞伎小屋の芝居茶屋に奉公したのち、茶道文化が庶民に広まったことを受け、茶道具を販売するようになりました。しかし、骨董を高値で取引していたことを奉行所に咎められ、40代の若さで隠居生活を送ることになります。

向島百花園 見取り図
御成座敷(おなりざしき)前の梅
『東京旧庭』より

この窮地を救ったのが、狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)や絵師の谷文晁(たにぶんちょう)、酒井抱一(さかいほういつ)といった江戸の文人たちです。鞠塢は歌舞伎見物にやってきた一流の文化人たちと芝居茶屋で知り合い、俳諧を通して身分を超えた対等な交友関係を築いていました。彼らは鞠塢の庭に360本もの梅の木を寄付し、花見客にその実を売って生計を立てられるようにしたのです。こうして1804(文化元年)頃、向島百花園が誕生しました。

文人たちは向島百花園を絵や俳句に登場させ、それを見た江戸の町民たちが大勢見物にやってきました。その人気は、亀戸の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれるようになったほどです。文人たちが現在で言うインフルエンサーとなって、向島百花園を有名にしたのです。

萩のトンネル
『東京旧庭』より

野の草花と石碑が彩る文化の庭

その後も鞠塢と文人たちは、向島百花園が一年を通して楽しめる庭になるように、和歌や俳句に登場する四季折々の植物を植えていきました。

名物、萩もその一つです。萩は、万葉集では141首と最も多く詠まれ、源氏物語や枕草子など数々の古典に登場する、日本の秋を代表する花です。毎年9月下旬頃になると、紅白の萩がトンネル状に全長約30mにわたって咲き誇り、来園者の目を楽しませます。

大木のようになった葛棚の様子

萩のほかにも、立派な棚をつくる葛や藤、花菖蒲、ススキなどの根本に生える思草(おもいぐさ)という10cmほどの小さな花なども万葉集に出てくる植物です。また、松尾芭蕉の「こにやくの さしみもすこし うめの花」という句にちなんで蒟蒻(こんにゃく)も栽培されています。現在、園内でみられる植物は日本在来種を中心に約500種、その8割が草木類となっています。

秋の七草のススキ
『東京旧庭』より
春の七草籠
『東京旧庭』より

また、鞠塢は春と夏、そして自ら選んだ新秋の七草をまとめて植え、各季節の風情を感じられるスポットを設けました。特に秋の七草は、夏から秋にかけて、早朝から昼間、宵、晩に咲く花が揃い、草花によって時間を知る花時計の趣向となっています。

さらに、春の七草籠は向島百花園が発祥で、現在も皇室に献上されています。

現在の向島百花園には春・夏・秋の七草と、自選の秋の七草の4種の七草が植えられています。

俳諧師・其角堂永機(きかくどうえいき)の喜寿を祝う句碑
『東京旧庭』より

そして、池の周りを中心として園内の各所に置かれた石碑からも、向島百花園の歴史を垣間見ることができます。創園時から明治時代にかけて建てられた29基の石碑は、向島百花園の由来を語るものから、交流のあった漢詩人・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)による仏画碑、芭蕉の句碑や歌舞伎作者の初代河竹新七の追善碑まで、さまざまです。

庭門にて、田中実穂さん(左)と向島百花園サービスセンター長の阿部透さん(右)

向島百花園サービスセンター長の阿部透さんは、「江戸時代から続く向島地域の園芸文化を紹介していければ」と、鞠塢が記した花暦『群芳暦(ぐんぽうれき)』を指針として、特に親交の深かった絵師・酒井抱一の《夏秋草図屏風》(東京国立博物館蔵)の情景を再現するなど、熱心に研究を重ね、向島百花園らしい造園を試みているそうです。

向島の園芸文化を引き継いで

「江戸時代の人たちは、隅田川から舟でやってきて、花見や七福神巡りを楽しみました。向島百花園は隅田川沿いを観光する拠点だったんです」

そう語るのは、園内の売店「茶亭 さはら」を営む佐原滋元(さはらしげもと)さん。鞠塢から数えて八代目の子孫です。「吾妻橋を渡ると田園と花畑が広がります。また、堀切の菖蒲園、錦糸町の牡丹園でも、花見客にお茶が振る舞われていたと明治の文献に書かれています。向島百花園では、花見に加えて園内の窯で隅田川焼をつくり、焼き上がりを待つ間に茶屋で梅干しを肴に酒を呑むのがお決まりでした」。

茶亭さはらの主人・佐原滋元さん
正月の隅田川七福神めぐりで御開帳となる福禄寿尊像(佐原家所蔵)
『東京旧庭』より
月見の会は中秋の名月をはさみ3日間行われる
『東京旧庭』より

「七福神巡りは、冬は花も少なく雪見もできないし、福禄寿尊像を持っているならと大田南畝の発案で始めたのですが、谷中や山手と並んで古いものなんですよ」。

当時から七福神巡りをはじめ、朝顔や菊の鑑賞、月見の会や虫聞きの会といった季節の行事も多く開催されていました。現在も、地元の園芸愛好家や俳人たちと協力して、こうした催事に力を入れています。

茶亭さはらで対談する田中さん(左)、阿部さん(中央)、佐原さん(右)

「江戸は田舎者ばかりと言いますが、皆さん、故郷の野山のようなこの庭が懐かしくて安心できる場所だったのではないかと思います。私の母は、ここを『気伸ばしの庭』と言っていましたが、あの明治の陸軍大将、乃木希典(のぎまれすけ)もよく訪れて、何をするでもなく庭を眺めていたそうですよ」と、佐原さんに教えていただきました。

民間の庭でありながら時の将軍や昭和天皇も訪れた向島百花園も、1910(明治43)年の隅田川洪水で2〜3mもの浸水被害に遭い、その後の経営難から、1915(大正4)年に土地や建物の所有権を実業家の小倉家に移行、1938(昭和13)年に東京市(当時)に寄付されました。さらに、1945(昭和20)年の東京大空襲では、建物は焼失、植物も2本のイチョウとタブノキを残して焼けてしまいます。

しかし、地元有志の尽力により4年後には復旧開園し、梅林も青梅街道の拡張工事で伐採予定だった梅の木を譲り受けて復活しました。現在も、梅酒や梅干しに使われる「白加賀」や香り高い「花香実(はなかみ)」といった梅が向島に春の訪れを告げます。

藤棚越しに萩のトンネルを眺める
『東京旧庭』より

これまで紹介した大名庭園は、日本や中国の景勝地などを模して、起伏に富んだ地形や大泉水、岩が織りなす普遍の風景が、形式に沿って造られています。そこには四季折々の情景とともに変わらない美しさ、様式美があります。かつては大名が賓客をもてなす場であり、昭和時代に所有者が東京市になってから一般公開される庭もありました。

一方、向島百花園は、平坦な土地に里山や野の風景が造られ、季節とともに移ろいゆく変化の美が一番の魅力です。一商人の庭であり、文人墨客や庶民が集まる行楽の場として、開園当初から広く親しまれてきました。それは現在も変わりません。

『東京旧庭』より
アジサイは6月が見頃

「今でも毎週のように来園される方がいらっしゃって、近所の俳句の先生も月に一度、同じ場所で庭を眺めています。季節で空気や匂いが変わるらしいですよ」と、佐原さん。

向島百花園は、200年の時を越えてもなお、多くの人々から自分の庭のように愛されています。

構成:浅野靖菜

向島百花園

住所:東京都墨田区東向島3-18-3
開園時間9:00-17:00(入園は16:30まで)
休園日:年末年始(12/29-1/3)
入園料:一般150円、65歳以上70円
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index032.html
※開園情報はサイトにてご確認ください

櫛引典久(くしびき・のりひさ)

写真家。青森県弘前市出身。大学卒業後、ファッションビジネスに携わり、イタリア・ミラノに渡る。現地で多分野のアーティストたちと交流を深め、写真を撮り始める。帰国後は写真家としてコマーシャル、エディトリアルを中心に活動。著名人のポートレート撮影を多数手がけ、ジョルジオ・アルマーニ氏やジャンニ・ヴェルサーチ氏のプライベートフォトも撮影。都立9庭園の公式フォトグラファーを務めたのを機に、ライフワークとして庭園の撮影を続ける。第6回イタリア国際写真ビエンナーレ招待出品。第19回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ(チェコ)入選。

田中実穂(たなか・みほ)

東京都江戸東京博物館学芸員。特別展「花開く江戸の園芸」を担当。江戸時代の園芸をはじめ、植物と人間との関わりをテーマとした講座や資料解説を手掛ける。また、都内における庭園の成り立ちを周辺地域の特徴から考える講座「庭園×エリアガイド」を行う。

講座の詳細については、江戸東京博物館ホームページ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/ をご覧ください。

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