東京のアートシーンを発信し、創造しよう。

MENU
MENU

秋田蘭画、江戸絵画史上わずか7年のキセキ

江戸アートナビ

No.002

江戸絵画の専門家・安村敏信先生と一緒に、楽しく美術を学ぶコラム「江戸アートナビ」。連載第2回となる今回は、これから見頃を迎えるカキツバタをテーマに作品を選定。秋田藩士で絵師の小田野直武が描いた《鷺図》から、後の洋風画や浮世絵に影響を与えながらも、わずか7年で絵画史から姿を消すことになってしまった「秋田蘭画」の謎に迫ります。


監修/安村敏信氏

Share
2014.05.25

Point 1. 秋田蘭画は江戸で描かれた!?

江戸アートナビ2
⼩⽥野直武《鷺図》絹本著⾊ 作品画像提供/板橋区⽴美術館

――写実的なのに不思議な構図ですね。

水平線が低いんだよね。西洋から入ってきた横ものの銅版画を縦の掛軸にする時に、水平線が極端に低くなりすぎちゃったという。構図も偏ってますよね。右側にグッと近景があって、鷺の羽の描写は本当にリアルで素晴らしい。流木の陰影、水面に映るカキツバタの葉の影もちゃんと描いているし。空も藍色が塗ってあるんだけど、これまで日本絵画には空を描くという意識がなかった。空が青いと認識し出したのは、この頃からなんです。

《鷺図》のように、西洋や中国からもたらされた陰影法や遠近法などの洋風表現を日本画の型に当てはめて描いた作品を、秋田蘭画といいます。秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ)や秋田藩主の佐竹曙山(さたけしょざん)が中心となっていたことから、秋田で描かれた絵と思われがちですが、秋田蘭画は江戸で描かれたもの。しかも、直武が江戸にやって来た安永2(1773)年から直武が亡くなる安永9(1780)年までの、わずか7年間の出来事なんだな。

――今月のテーマ、カキツバタがほとんど関係なくなってまいりましたが、なぜ秋田藩の直武が江戸へ上ったのでしょうか。

Point 2. 白紙になった角館伝説!?

安永2(1773)年、直武は曙山の命で、平賀源内(ひらがげんない)のいる江戸へ派遣されたんだよね。どうして源内が出てくるかというと、当時、源内はいろんなところで銅山を見つけていたので、鉱山開発でお金を得ようとしていた秋田藩も源内を招いたというわけ。そこで、ふたりが出会ったという角館伝説が生まれるんです。

江戸アートナビ2

確かに源内は武助(直武の別名)宛に手紙を書いていたので、接点はあったかもしれない。しかし源内みたいな50前のおっちゃんが、25歳の直武に対して「武助殿」と敬うのはおかしい。それで秋田県立近代美術館の山本氏が秋田藩史を読み解いて、他に武助はいないかと探したところ、いたんです。伊多波武助(いたはぶすけ)という50過ぎの鉱山にものすごく詳しい人が。この発見で、角館伝説は白紙になるんですね。

では、なぜ直武は源内のもとで洋風画を学び始めたのか。実は藩主の曙山が新しい洋風画を学びたかったらしいんだけど、殿様が天下の浪人者を招いて教えてくれなんていえないでしょ。それで、まず画才のある直武を源内にくっつけて洋風画を学ばせ、その後、自分に教えてもらおうと。そんな理由で直武を江戸に向けたらしいです。殿様命令なら、直武は源内について江戸に行くしかない。そう考えると、直武と源内が角館で出会っている必要もないんです。

――でも源内は直武に、いきなり大きな仕事を任せますよね。

江戸アートナビ2

Point 3. 直武と曙山、ヒミツの密会!?

直武は、江戸に出て1年もしないうちに、源内の友人だった杉田玄白(すぎたげんぱく)の『解体新書』の挿絵を描いています。12月に江戸に来て、翌年8月に『解体新書』が刊行されているので、逆算するとわずか半年間で、線で陰影を表す銅版画の技法を習得して、実際に描いてしまっているということ。こんなに短い期間でいつ西洋画法を学んだのか、謎なんですね。

曙山も安永5年に参勤交代で江戸に来ていて、この間に直武から画法を伝授されている可能性もあるんだけど、秋田藩の記録にはふたりが会ったという記述はありません。にもかかわらず、曙山は曙山で直武とは違った上品でシュールな絵画世界を築いている。江戸にいる間、こっそり抜け出して直武に会って絵の手ほどきを受けるとか、絵手本のやり取りをしていたとか、何かあったと思うんだけど、そこは謎なんです。ただ、曙山は20歳くらいの時、写生帖に孫太郎虫の写しを描いたりしているので、洋風画の素養はその頃からあったかもしれない。

江戸アートナビ2

――約240年前の江戸のどこかで、画法伝授のため、人目を忍んだレッスンが行われていたことを妄想すると、胸が熱くなります。

Point 4. 日本絵画史における秋田蘭画の役割

直武の絵は秋田の藩士たちに見せられ、佐竹義躬(さたけよしみ)や田代忠国(たしろただくに)などがそれを真似たへんてこな絵を描き、秋田蘭画の画風は継承されていきました。ところが、直武が安永9(1780)年に32歳の若さで亡くなると、曙山もほとんど絵を描かなくなったといわれていて、秋田蘭画は絵画史から姿を消すことになります。それでも、後世に与えた影響は大きくて、前回浮世絵の風景画は北斎の《冨嶽三十六景》から始まったといいましたが、初めて本格的に日本の風景を描き始めたのは秋田蘭画なんです。その伝統を受けて、司馬江漢(しばこうかん)が油絵で風景画を描き、北斎や広重が浮世絵で名所絵を始めたと。そう考えると、たった7年とはいえ、日本絵画史において秋田蘭画は、とても重要な役割を担っていたといえるでしょう。

イラストレーション/伊野孝行 

No.003「洒脱なセンスで江戸の風俗を描いた絵師」へ

監修/安村敏信(やすむら・としのぶ)

1953年富山県生まれ。東北大学大学院博士課程前期修了。2013年3月まで、板橋区立美術館館長。学芸員時代は、江戸時代の日本美術のユニークな企画を多数開催。4月より“萬美術屋”として活動をスタート。現在、社団法人日本アート評価保存協会の事務局長。主な著書に、『江戸絵画の非常識』(敬文舎)、『狩野一信 五百羅漢図』(小学館)、『日本美術全集 第13巻 宗達・光琳と桂離宮』(監修/小学館)、『浮世絵美人解体新書』(世界文化社)など。

公式アカウントをフォローして
東京のアートシーンに触れよう!