林芙美子は、子供時代より不遇な運命を辿り、行商をする両親とともに九州・山陽地方の木賃宿を転々としました。尾道の小学校、女学校へと進学し、卒業後は恋人を頼りに上京。女工、事務員などをして生活をしのぎました。このころの数年を綴った雑記が、のちの『放浪記』の原型になります。 1930年に『放浪記』が出版されるやベストセラーになった後は、作家としての人生を歩みました。
新宿区下落合にある林芙美子記念館(以下、記念館)は、芙美子が晩年の約10年間を過ごした終の住処です。このあたりは松本竣介、佐伯祐三、壺井栄など、多くの画家や小説家といった文化人が暮らしたまち。芙美子は1939年に土地を購入し、画家である夫・手塚緑敏(てづかりょくびん)とともに新居を建てました。およそ500坪の敷地に、生活棟とアトリエ棟を構えています。
6月28日の芙美子の命日に合わせて行われた建物公開のツアーでは、参加者は2チームにわかれて見学しました。Tokyo Art Navigation取材班が参加したツアーでは、ボランティア歴十数年のベテランガイド山西さんがガイドを担当。山西さんのように、記念館を支えるボランティアは36名ほど。「ボランティアさんたちは記念館にとってなくてはならない存在です」と学芸員の佐藤泉さんはいいます。
まずはアトリエ棟からガイドが始まりました。アトリエ棟には、夫・緑敏のアトリエ、芙美子の書斎、寝室があります。
「今日はいい風が吹いていますね。東西南北に風通しのいい家がいい、愛らしい家がいい、と芙美子さんは自邸をつくるにあたって思いがたくさんあったようです」と山西さん。南側の庭に面して大きく開いた窓から風が吹き抜け、梅雨の湿気と初夏の暑さを和らげてくれるようです。
芙美子のエッセイ「昔の家」(『芸術新潮』昭和25年1月号)には竣工までに「足かけ六年の準備をかけた」と記されています。宮大工や設計事務所のスタッフを京都に連れて行き、民家や寺院を見て回りました。読んだ建築の本は200冊以上。彼女は「昔の家」のなかで「家を建てると云う事は、神経衰弱になってしまう程の辛さだった」と書くほど、家づくりへ情熱を傾けました。
芙美子がこの思いを託した建築家は、和風建築の設計にも長けたモダニズム建築の旗手、山口文象(やまぐちぶんぞう)でした。室内には、寺院や数寄屋造りを参考にしたデザインが随所に見られます。また建設時は建坪の制限があったこともあり、部屋を広く見せる工夫もされています。たとえば風景を切り取る窓。障子戸の一部をガラスにすることで、庭の風景が室内に取り込まれ、空間に奥行きが生まれています。
ツアー一行は、玄関のある生活棟に移ります。生活棟には、芙美子の原稿を取りに来た記者たちが待つ客間や、一家団欒の茶の間、家事が好きだった芙美子がこだわった台所や風呂などがあり、芙美子の生活の様子が思い浮かびます。特に茶の間と水回りには贅を凝らしており、暮らしを大切にしている姿が伺えました。
愛らしい家に、丁寧な生活。そんな芙美子の豊かな日々がイメージできる、約70分のツアーでした。ツアーには世代も目的もさまざまな方が参加していました。
「インテリアの勉強をしていて、読んでいた本でこの記念館を知りました。こじんまりとした空間のなかで凝った細工が随所に見られ、内装の参考になりました」という30代の女性。また、「和風という感じがしませんでした。芙美子さんの『これがいい』という強い思いが現れていて、常識にとらわれていないから実現したのかもしれませんね」という建築を学ぶ学生も。和風建築でありながら、ロフトやつくり付けの二段ベッドなど、西欧の文化がヒントになったとみられる部屋もありました。
「自分をさらけ出す芙美子さんの世界観が好き」という林芙美子作品のファンである60代の女性は「以前からこのイベントにずっと参加したかったので、やっと夢がかないました。ガイドさんの丁寧な説明に感激しています。一層林芙美子さんを知りたいという思いです。また来ます!」と話しました。
季節によって庭の趣も変わるため、リピーターが多いという林芙美子邸。次回の建物公開は秋です。