ゴッホを生涯にわたり経済面、精神面から支え続けたのが弟のテオであることはよく知られている。売れない画家だったゴッホは32歳の冬、パリで働いていたテオのもとに転がり込むが、同居生活はなかなかうまくいかなかった。テオは妹宛の手紙に「彼には出て行ってもらいたい」と書いている。だが2年間のパリでの生活は、ゴッホに多くの出会いや刺激をもたらした。印象派や浮世絵、またゴーギャンやベルナールといった画家仲間たち。そして日本に関する書物を読んでは、未踏の地・日本を「理想の場所」と重ね、想像を膨らませたのだった。やがてゴッホは、画家たちが共同生活を送る「理想の場所」を夢想するようになる。
ゴッホ&ゴーギャン 《前編:ゴッホ》
アーティスト解体新書
No.004ともに19世紀末に生き、互いに影響を与えた2人の画家・ゴッホとゴーギャンを、2回にわたり紹介します。前編は、波乱万丈な人生を歩んだフィンセント・ファン・ゴッホです。生前には作品が評価されず、また気難しく真剣すぎる性格から、生きづらさを抱えていたゴッホ。数少ない絵画仲間だったゴーギャンとの、南仏アルルでの共同生活や交流を中心に紹介します。
イラスト:豊島宙
構成・文:TAN編集部(佐藤恵美)
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)
オランダ生まれ。ポスト印象派の画家。印象派や日本の浮世絵などにも影響を受け、《ひまわり》をはじめ多数の名作を残したが、37歳でその生涯を閉じる。
パリを出たゴッホは34歳の冬、ユートピアを実現するため南仏の町・アルルへ移り住む。この地で画家の共同体をつくろうと、新生活に期待を抱いた。共同体の指導者にはゴーギャンこそふさわしいと考えていたゴッホは、まずゴーギャンを誘った。そして、絵にも描かれた「黄色い家」でゴーギャンを待つ。「太陽、光、ほかに適当な言葉がないので、僕はただ黄色、青白い硫黄のような黄色、青みがかったレモン色、金色という。黄色、なんて美しい色だろう!」(1888年、テオ宛の手紙)。南仏の陽光がもたらす「黄色」は、理想を求めて期待を抱くゴッホにとって特別な色だったのだろう。代表作、黄色い花《ひまわり》もこのころに描かれた。
同年の10月、アルルへゴーギャンが引っ越し、いよいよ共同生活が始まった。2人は制作をともにし、議論を重ね、刺激的な日々を送った。だが芸術に対する考え方や性格の違いなどで口論は絶えなかった。やがて家を出て行こうとしたゴーギャンに逆上したゴッホが自ら左耳の一部を切り落としたという、かの「耳切り事件」を機に2人の共同生活は解消。ゴッホが求めた理想の生活はわずか2カ月で終わる。そのなかでゴッホは2点の椅子の絵を描いている。質素な椅子は《ゴッホの椅子》。そして肘掛けの付いた方は《ゴーギャンの椅子》。2脚の不在の椅子は、唯一無二の友人・ゴーギャンへの思いが込められているのかもしれない。
協力:大橋菜都子(東京都美術館学芸員)
豊島宙(とよしま・そら)
イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。
国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。