生涯、描きたいものを描く姿勢を貫いた北斎。自室には「おじぎ無用、みやげ無用」と書いた紙を貼り、過度なへつらいも、身分をかさにきた威圧も、ともに嫌った。当時の歌舞伎界の大スター・三代目尾上菊五郎(1784~1849)が絵の依頼に来訪した際は、畳の汚さに毛氈(もうせん)を敷いて座ったことに腹を立て、無視して帰らせたことも。その反面、御用聞きの小僧などには、筆さばきも鮮やかに絵を描いて見せ、土産にくれるようなこともあった。画号の度重なる変更は、名声が広まって騒がれるのを避けたことも理由と言われる。北斎から卍と改号して間もない頃、ある提灯屋の店先で「卍さん頼む」と請われて白い提灯に絵を描いたところ、北斎とは知らない人に「お前さんはなかなか絵心がある」と感心され、笑っていたという。
葛飾北斎
アーティスト解体新書
No.008「すみだ北斎美術館」が2016年11月にオープンし、改めて注目を集める江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。卓越した画力と斬新な構図や画題で、町人文化円熟にあった江戸時代後期の絵画界を牽引していった北斎のすごさは、「画狂人」と自称した通り、数え年90歳で没するまで絵師として高みを目指し続けたその“情熱”。権威や時代におもねることなく、ひたむきに画業に打ち込み続けたその人物像に迫ります。
イラスト:豊島宙
構成・文:TAN編集部(合田真子)
葛飾北斎(かつしか・ほくさい 1760-1849)
宝暦10年(1760)、江戸本所割下水(現・墨田区)生まれ。役者絵で一世を風靡した勝川春章に19歳で入門、20歳で勝川春朗としてデビュー。35歳で勝川派を離れたのちは、流派には属さず挿絵、絵本、浮世絵、肉筆画など幅広く制作した。代表作に「冨嶽三十六景」「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」「北斎肉筆画帖」『東都名所一覧』『北斎漫画』など多数。極端な掃除嫌い、頻繁な引っ越しや画号の改名など、破天荒な逸話も数多い。
弟子入り志願者が増えた北斎は、効率的にわかりやすく絵の描き方を教えるための本を出版した。有名なものに『北斎漫画』(1814~1878年)や『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』(前編1812年、後編1814年)がある。『北斎漫画』は純粋な絵の手本であり、『略画早指南』では、人や動物などを丸と線に分解し、コンパスと定規で描いていく手順と、文字を絵の骨格にして描いていく手順とが合理的に説かれている。北斎は、弟子にこれらを手本に描かせて添削する教え方により、蹄斎北馬(ていさいほくば)、魚屋北溪(ととやほっけい)、柳川重信(やながわしげのぶ)など多くの優れた絵師を輩出した。絵画教育者としての北斎の才能がしのばれる逸話だ。
19世紀後半、医師・博物学者のシーボルト(1796~1866)が初めて欧米に紹介した『北斎漫画』や、幕末から明治にかけて渡った多数の浮世絵作品のなかでもとりわけ人気を博した「冨嶽三十六景」などにより、北斎の名は瞬く間に欧米に広まった。それまでの西洋絵画にはなかった構図や技法、そして生き生きとした人物描写に、ゴッホ、モネ、セザンヌ、ゴーギャンほか、多数の画家たちが衝撃を受け、みずからの作品に取り入れていった。日本においても、『北斎漫画』や多くの読本の挿絵で北斎が生み出した、台詞や回想の吹き出し、爆発や光線などの集中線、波や風のうねり、人物の動作の連続性といった表現は、現代の漫画やアニメーション文化の原点ともいえる、革新的なものとなったのだ。
<完>
監修:すみだ北斎美術館
「すみだ北斎美術館」は2016年11月にオープン。モダンな建築の設計を手掛けたのは、世界的な評価を受ける妹島和世さん。北斎の生まれた本所割下水も近く、敷地は江戸時代には弘前藩津軽家の大名屋敷だったところで、北斎が屏風絵を描いた記録も残っているなど、北斎とゆかりの深い場所にあります。世界有数の北斎作品収集家・研究家だったピーター・モース(1935~1993)のコレクション約600点と、墨田区によるコレクションを基盤とし、北斎の専門美術館としてさまざまな情報を発信しています。
豊島宙(とよしま・そら)
イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。
国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。