幼少期より大正琴や琴をほぼ独学で習得するなど、非凡な楽才を発揮していた古賀だったが、商店を営む長兄から「商売人となって店を手伝え」と命じられ、12歳で商業学校に進学。そんな中、数少ない理解者の四兄・久次郎が、当時の流行楽器であるマンドリンを買ってくれた。卒業後大阪の商店に就職するも、音楽への情熱はやまず、約1年後の大正12 年(1923)、上京。明治大学予科へ入学すると同時に、同大のマンドリン倶楽部創設に参加、積極的な音楽活動を開始した。久次郎のくれたマンドリンは同年の関東大震災でも被災を免れ、古賀を音楽の道へと導いた象徴的な楽器となった。
古賀政男
アーティスト解体新書
No.014生涯作曲数4000曲とも5000曲ともいわれる「歌謡曲の父」、古賀政男。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《誰か故郷を想わざる》《東京ラプソディ》など、邦楽の音階法則やエッセンスを取り入れた画期的な作曲法で、戦前から戦後にかけて数々の名曲を生み出しました。ときに軽快、ときに哀愁をおびた「古賀メロディー」の生まれた背景に迫ります。
Illustration: 豊島宙
Text: 合田真子
古賀政男(こが・まさお 1904-1978)
福岡県三潴郡田口村(現・大川市)生まれ。明治大学在学中に作詞作曲した《影を慕いて》を大学卒業の翌年昭和5年(1930)に発表。大学卒業後はレコード発売され大ヒット。大卒後はレコード会社専属の作曲家となり、昭和6年の《酒は涙か溜息か》が大ヒット。以後、晩年まで作曲・演奏活動に邁進した。昭和34年(1959)、作曲を通じて音楽の向上と普及をはかり、国の芸術文化の発展に寄与することを目的として現在の「公益社団法人日本作曲家協会」を設立。同年、音楽のジャンルを問わず、その年の日本を代表した歌を選ぶ「日本レコード大賞」を制定し、大衆音楽に一つの大きな流れを築いた。
古賀政男といえば、後年のテレビ番組でよく見られた、メガネと口ひげにニコニコと笑みをたたえた温厚なキャラクター。しかし、若い頃は直情径行で潔癖な性格のため、周囲と衝突することも少なくなく、明治大学マンドリン倶楽部でも、うるさくて怖い先輩として通っていた。あるとき「これでは人が離れていってしまう」と一念発起、鏡を見ながら笑顔の練習を始め、つねに明るい挨拶や言動を心掛けた。すると、仲間たちとの関係が良好なものへと変わっていったという。トレードマークの笑顔には、こんな秘密があったのだった。
昭和13年(1938)に音楽親善使節として全米を公演旅行し、アメリカのNBC放送で古賀メロディーを世界に向けて放送するなどしていた古賀は、疎開先の河口湖近くの村で終戦を迎えた。ある日進駐軍が村に来て、古賀を探しているという。戦犯として逮捕されることも覚悟して赴くと、流暢な日本語と笑顔で握手を求められた。進駐後の司令部要員として日本語教育を受けていた彼らは、その一環として鑑賞した日本映画のなかで《東京ラプソディ》を聴き感動、純粋なファンとしての訪問だった。音楽が国境を越えたこの出来事に力を取り戻した古賀は、戦後も数々のヒット曲を作り続けた。
<完>
協力:古賀政男音楽博物館
古賀政男音楽博物館
古賀政男は昭和13年(1938)東京・代々木上原に居を構えます。古賀はこの地に、音楽創造に邁進する同志を集めて音楽村をつくる構想を持っていました。そんな古賀の遺志を受け継いで誕生した「見て・聴いて・歌える」大衆音楽の博物館。古賀に関する資料はもちろん、日本の歌謡史をたどることのできる貴重な資料が、多数収蔵、展示されています。
◎所在地:〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12
◎電話:03-3460-9051
◎開館時間:10時~17時
◎休館日:月曜日(月曜日が祝祭日・振替休日の場合は翌火曜日)、年末年始、展示替期間
豊島宙(とよしま・そら)
イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。
国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。