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横山大観〈後編〉

アーティスト解体新書

No.016

2018年に生誕150年を迎える近代日本画の巨匠、横山大観に迫る後編。近代化の波が押し寄せた明治時代、日本画にも新たな表現が求められていました。その先鋒として取り組んだのが、横山大観や、同輩の画家たちです。度重なる苦労の果て、とうとう時代は動き、やがて大観は日本の美術界を牽引する存在となっていきます。


Illustration:豊島宙
Text:合田真子

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2017.01.16

横山大観(よこやま・たいかん 1868-1958)

明治元年、常陸国水戸(現・茨城県水戸市)に生まれる。古典に学びながら時代に即した画題や表現を追究し、独自の絵画世界を確立した。代表作に《無我》《瀟湘八景》《生々流転》《霊峰飛鶴》など多数。昭和12年(1937)、第1回文化勲章を受賞した。2017年10月、105年ものあいだ行方不明となっていた《白衣観音》(1908年)が発見されたことを東京国立近代美術館などが発表し、話題となった。


岡倉天心の指導から大観は、光や空気を表現する際に輪郭線を用いない実験的な手法を実践していた。しかし当時の日本画壇では「朦朧体(もうろうたい)」と酷評される時代が長く続いた。そんなさなかの明治36年(1903)から38年(1905)にかけて、大観は日本美術昂揚のため菱田春草(ひしだ・しゅんそう 1874-1911)とともにインドを、次いでアメリカとヨーロッパを訪れる。ニューヨーク滞在中、旅費獲得のため展覧会を開いたところ大評判となり、その後赴いたパリ、ベルリンでも同様であった。この経験から2人は、自分たちの表現が遠からず日本でも受け入れられる、静かな確信を得たのだった。

大正時代初期頃を境に「朦朧体」は日本画の新画風として徐々に受け入れられ、のちに再興された日本美術院は日本画壇の主流となっていく。著名人のなかにもファンが現れ始め、その一人が夏目漱石(1867-1916)であった。漱石は大観の作品を新聞紙上などで高く評価し、大観も漱石の文才や学識に深い敬意を持ったことから、2人の間でも交流があった。ある日、漱石が大観の自宅を訪れたときのこと、作品制作中だった大観は、書生に来客は断るように命じていたため、漱石も帰らせてしまう。帰った客の名前を聞いた大観は血相を変えて書生に追いかけさせ、無事に連れ戻すことができたという。

大観と同じく、岡倉天心の門下で日本画の革新に貢献した菱田春草とは東京美術学校在学中より意気投合、五浦時代(前編参照)は、海辺の村で安く売られている魚すら買えずに交替で釣りをし、また、大観の縁戚を巡って絵を描くなどして日々の糧を得た。どこまでも苦楽をともにしてきた春草だったが、五浦で腎臓や目を煩って1人東京へ戻り、明治44年(1911)、36歳の若さで病没。大観は才能ある盟友の早世を生涯惜しんだ。大正2年(1913)、今度は天心が病没する。失意のなか奮起した大観と下村観山(1873-1930)らは師の遺志をついで、翌大正3年(1914)、天心の一周忌に日本美術院を再興した。

<完>

監修:横山大観記念館

横山大観記念館

所在地:東京都台東区池之端1-4-24
電話:03-3821-1017
開館時間:10時~16時
休館日:月~水曜日(祝日の場合は開館の場合有)、夏季・冬季休館

http://taikan.tokyo/index.html

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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