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リヒャルト・ワーグナー

アーティスト解体新書

No.028

19世紀のドイツを代表するオペラ作曲家リヒャルト・ワーグナー。女性歌手の技巧を強調する当時のイタリア・オペラに対して演劇的で重厚、そして長大な作品を発表し、自作のために劇場を建設するなど、ドラマを魅せることに意欲的でした。同時代はもとより現代に至るまで熱狂的なファンをもつワーグナーの、音楽や演劇への情熱がうかがえるエピソードを紹介します。


Illustration:豊島宙
Text:浅野靖菜

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2019.08.28

リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)

1813年、ドイツ・ライプツィヒに生まれる。歌手の技巧を誇示するのではなく、ストーリーを演出する手段として音楽を用いるオペラの一ジャンル「楽劇」を提唱した。当時としては珍しく楽器を演奏せずに作曲のみを行う作曲家であり、個人事業として初の歌劇場経営を行うなど、時代の先駆者でもあった。代表作には『トリスタンとイゾルデ』(1865年)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)、完成まで26年をかけた『ニーベルングの指環』(1876年全曲初演)など、中世ドイツ文学やゲルマン神話を題材にした作品が多い。


独学に近い形で音楽を学ぶ

ワーグナーの生まれたライプツィヒは、ヨーロッパ屈指の商都で音楽の街としても知られる。生まれて半年後に病死した父は演劇愛好家で、養父もドレスデンの宮廷俳優、兄や姉たちもオペラ歌手や舞台女優だったこともあり、ワーグナーは幼い頃から音楽と演劇に親しんでいた。作曲家を目指すようになったのは9歳の時、ウェーバーが『魔弾の射手』(1821年)でオーケストラを指揮する姿に憧れてのことだった。しかし、幼少の頃から音楽の英才教育を受けたわけではなく、大学の授業にもなじめずに中退してしまう。そのため、作曲理論は地元のゲヴァントハウス管弦楽団(世界初の民間オーケストラ)の演奏家や、トーマス教会のカントル(オルガン奏者兼聖歌隊長)に師事した。作曲技法も同時代のオペラやオペラ・コミックの写譜、編曲の仕事を通じて学ぶなど、作曲に必要なことは現場で習得していった。

自らがつくり上げた最高の舞台

1864年にバイエルン国王ルートヴィヒ二世の庇護を受けることになったワーグナーは、全4部からなる『ニーベルングの指環』のうち、先に完成していた序夜と第一夜の総譜を国王に献上する。すると1869~70年にかけて、ワーグナーの意志に反して国王の命令により、首都ミュンヘンでこの序夜と第一夜のみが単独初演された。加えて演目が日替わりで消費されていく都市部の劇場システムにも危惧を抱き、小さな田舎町に自身の劇場を建てようと考えるようになる。

そこで、豊かな自然に囲まれ、ドイツのほぼ中央に位置し、なおかつルートヴィヒ二世の領地であるバイロイトに白羽の矢が立った。劇場の資金集めや出演者探しに奔走し、1876年にバイロイト祝祭劇場が完成、第二夜と第三夜も含めた全曲初演が行われた。仮設の予定だったが、オーケストラ・ピットを舞台下に収めた造りは音響・演出の面でも効果的だったため、常設の劇場となった。現在も同劇場では7月下旬~8月にバイロイト音楽祭が開催され、世界中のワグネリアン(ワーグナーファン)達が「バイロイト詣で」に訪れる。

ワーグナーの思想を体現する楽劇

大作『ニーベルングの指環』にかかりきりだったワーグナーが、ルートヴィヒ二世の支援が決まって生活と仕事の保証ができた後に作曲したのが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』。意中の女性エーファと結婚するために歌合戦の勝者となるべく奮闘する騎士ヴァルターを描いた、祝祭感あふれる喜劇作品だ。厳しい規則に則った歌を披露するマイスターたちに対し、ヴァルターは大胆で型破りな歌で、見事マイスターの称号とエーファを獲得する。その姿には、新たなオペラのジャンル「楽劇」を唱えるワーグナー自身が投影されている。音楽評論家や新聞評では酷評されたものの、新旧芸術の対立やドイツの芸術・文化を称えるクライマックスの大合唱は、観客の心を掴んだ。ワーグナーの目指す芸術とは何かが垣間見える、ワーグナー初心者にもおすすめの作品だ。

<完>

協力:最上英明(香川大学 大学教育基盤センター教授)

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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