ライス・カレーがきっかけで監督デビューへ
健啖家の小津の好物を挙げれば、とんかつ、ラーメン、うなぎ、天ぷら、鶏鍋と長いリストになる。監督デビューのきっかけも、好物のライス・カレーが関わっていた。蒲田撮影所に助手として働いていたある日、撮影が長引いて空腹をかかえ、撮影所内の食堂にかけ込むと、カレーのいい香りが漂っている。唾をためて配膳を待っていたが、あろうことか後から食堂に入ってきた監督のもとに、待っていた皿が運ばれてしまう。「順番だぞ!」と思わず怒鳴る小津。あわや大げんかという一幕のあと、この話が撮影所の所長の耳に入ると「おもしろいやつだ」と印象づけることに。翌月、時代劇『懺悔の刃』(1927)の監督に抜擢されるきっかけだったと後に小津は振りかえっている。
ローポジションへの執着
カメラを低いポジションに据える「ローポジション」が小津映画の画づくりの代名詞。逆に俯瞰のショットは嫌いで、『浮草』(1959)など数えるほどしか登場しない。さらに屋外でのロケよりも、セットのなかで芝居をつくり込む演出を好んだ。ローポジションで覗いた構図に合うよう、和室に置かれた薬缶(やかん)からカウンターの灰皿の位置まで、徹底してこだわり抜く。さらには奥行きを強調した長い廊下のセットをつくるなど、理想の構図を手に入れるための工夫は惜しまなかった。その一方、「画調を壊さない、画面からはみださない綺麗な音なら良い」と、音楽についてはうるさく言わない一面も。
本物志向と絵画
映画に登場する美術作品には、小道具とはいえ模造品は使わない本物志向で「人間の眼はごまかせても、キャメラの眼はごまかせない」と語る。絵画が最も多く登場するのは、年ごろの娘の結婚というお得意のテーマを扱った『秋日和』(1960)だろう。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』(1953)でもヒロインを演じた原節子との再婚が叶わなかった北竜二がやけ酒をあおる場面に着目すると、料亭の壁には梅原龍三郎の《浅間山》が、北のくすぶる思いをあらわすように飾られている。キャラクターの心情を補足したり、場面の意味を引き立てたりと、絵画は後期小津映画の名脇役ともいえる存在だ。『秋日和』にはこの他にも、東山魁夷、橋本明治、速水御舟らの作品がシーンを彩っていて、Tokyo Art Navigationの読者なら、贅沢な絵画の数々を楽しみながら観ることができるはず。今もなお、日本のみならず世界中から愛され続けている名作だ。
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