職業は「漫画家」
やなせたかしは東京高等工芸学校を卒業し、戦争経験を経て復員後は、高知新聞社に入社。『月刊高知』で表紙絵、漫画、付録までを手がけていた。1947年に上京してからは、三越でグラフィックデザイナーをしながら、副業で漫画を描き、1953年にフリーの漫画家となる。やなせが描いていたのは、『ビールの王さま』(1954年)や『ボオ氏』(1967年)といった、どこか憎めない愛らしいキャラクターを主人公にしたセリフのない四コマ漫画だ。しかし、ヒット作に恵まれず、知人の紹介されるままにテレビやラジオの脚本、舞台演出などもこなしていた。
雑誌『詩とメルヘン』『いちごえほん』
1960年代は劇画ブームで、過激で暴力的な表現を用いたストーリーマンガが多く登場した。ユーモアあふれる四コマ漫画を描いてきたやなせは、次第に詩や童話といったメルヘンの世界で注目されていく。1973年に季刊誌『詩とメルヘン』(のちに月刊)、1975年に子供向けの詩と絵の月刊誌『いちごえほん』が創刊され、やなせは両誌の編集長を務める。読者から投稿された詩にプロのイラストレーターが絵をつけるこれらの雑誌から、葉祥明、黒井健、永田萌らが絵の才能を開花させていった。
日陰に生きる人間の気持ち
やなせは5歳の時に父親を亡くし、後に母親の再婚に伴い伯父の家に引き取られている。養子として先に貰われていった弟と自らを比べ、運動能力や器量で劣等感を抱いていた幼少時代。一人、部屋の中で絵を描く時間も多かった。どこか孤独を感じていたのか、思春期には、夜の線路に横たわって自殺しようとしたこともあったという。大人になってからも、仲間の漫画家たちが20~30代でブレイクする中、やなせがヒット作『アンパンマン』を世に出したのは50代になってから。長い不遇の時代とその反動が、マルチな仕事ぶりや若い才能の発掘・育成に繋がっていったのかもしれない。
<後編に続く>