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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン〈前編〉

アーティスト解体新書

No.036

2020年で生誕250年を迎える、ドイツの世界的作曲家・ベートーヴェンは、印象的なフレーズでお馴染みの「運命」や三大ソナタと言われる「悲愴」「月光」「熱情」など、誰もが聞いたことのある傑作の数々を生み出してきました。前編では、クラシック界の巨匠はいかにして誕生したのか、そのルーツを探ります。


Illustration:豊島宙
Text:小室敬幸

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2020.03.11

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)

ドイツのボン出身。音楽の都ウィーンでハイドンやサリエリに師事し、若い頃はピアニストとしても名声を博す。20代後半から聴覚障害に悩まされながらも、56歳で亡くなるまでに250曲以上の作品を書き残した。パトロンとなった貴族の支援のもと、前例にとらわれずに生み出された数々のドラマティックな傑作が支持され、芸術家の理想像として広く尊敬を集めた。


生い立ち

宮廷で働く楽長の祖父とテノール歌手の父のもとに生まれる。3歳の頃に祖父が亡くなるが、父から英才教育を受けて、7歳で演奏会デビュー。「第二のモーツァルト」と目されるほどの神童ぶりを発揮したベートーヴェンだったが、16歳の時に母が急逝。父は酒に溺れるようになり仕事を放棄したため、10代なかばにして一家の大黒柱として、宮廷オルガニストやピアノ教師などをして2人の弟を養わなくてはならなかった。それでも学ぶことを諦めなかったベートーヴェンは21歳で巨匠ハイドンに才能を見初められ、音楽の都ウィーンに進出。不屈の精神でチャンスを掴み取っていく。

音楽家の地位を、「雇われ職人」から「自律した芸術家」へと高める

地元ボンではオルガニストとして宮廷に務めていたベートーヴェンだったが、ウィーンに進出した頃、フランスでは革命により王族・貴族の地位が揺らぎはじめていた。当初は音楽好きのリヒノフスキー侯爵の庇護のもと、彼が主催するサロン・コンサートに出演。貴族たちを喜ばせていたが、1800年に侯爵から年金を支給されるようになると、自由な作曲に時間を割けるようになった。だからこそ革命的な作品を生み出すことができたのだ。こうしたベートーヴェンの姿勢は、後世の芸術家たちにとって模範となっていった。

「運命」「月光」などといった有名な副題は、ベートーヴェン自身が付けたものではない!?

ベートーヴェンの作品といえば、まずは有名な副題がついた楽曲を思い浮かべがちだが、実はその多くは第三者が付けたもの。例えば「運命」は秘書を務めたシンドラーが証言するベートーヴェンの発言に基づくものなのだが現在では捏造だとみなされており、身分違いの片思い相手に献呈された「月光」や、ドラマティックな「熱情」という題もベートーヴェンの死後に付けられたもの。ただし「悲愴」という題は、初版譜に付けられているため作曲者自身によるものだ。「なくした小銭への怒り」という珍曲もあるが勿論これも第三者が付けたものに過ぎない。

<後編に続く>

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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