生い立ち
宮廷で働く楽長の祖父とテノール歌手の父のもとに生まれる。3歳の頃に祖父が亡くなるが、父から英才教育を受けて、7歳で演奏会デビュー。「第二のモーツァルト」と目されるほどの神童ぶりを発揮したベートーヴェンだったが、16歳の時に母が急逝。父は酒に溺れるようになり仕事を放棄したため、10代なかばにして一家の大黒柱として、宮廷オルガニストやピアノ教師などをして2人の弟を養わなくてはならなかった。それでも学ぶことを諦めなかったベートーヴェンは21歳で巨匠ハイドンに才能を見初められ、音楽の都ウィーンに進出。不屈の精神でチャンスを掴み取っていく。
音楽家の地位を、「雇われ職人」から「自律した芸術家」へと高める
地元ボンではオルガニストとして宮廷に務めていたベートーヴェンだったが、ウィーンに進出した頃、フランスでは革命により王族・貴族の地位が揺らぎはじめていた。当初は音楽好きのリヒノフスキー侯爵の庇護のもと、彼が主催するサロン・コンサートに出演。貴族たちを喜ばせていたが、1800年に侯爵から年金を支給されるようになると、自由な作曲に時間を割けるようになった。だからこそ革命的な作品を生み出すことができたのだ。こうしたベートーヴェンの姿勢は、後世の芸術家たちにとって模範となっていった。
「運命」「月光」などといった有名な副題は、ベートーヴェン自身が付けたものではない!?
ベートーヴェンの作品といえば、まずは有名な副題がついた楽曲を思い浮かべがちだが、実はその多くは第三者が付けたもの。例えば「運命」は秘書を務めたシンドラーが証言するベートーヴェンの発言に基づくものなのだが現在では捏造だとみなされており、身分違いの片思い相手に献呈された「月光」や、ドラマティックな「熱情」という題もベートーヴェンの死後に付けられたもの。ただし「悲愴」という題は、初版譜に付けられているため作曲者自身によるものだ。「なくした小銭への怒り」という珍曲もあるが勿論これも第三者が付けたものに過ぎない。
<後編に続く>