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バウハウス〈後編〉

アーティスト解体新書

No.040

科学技術の発展が著しい時代にふさわしい造形芸術家の育成を目指して誕生した教育機関バウハウスは、昨年開校100年を迎えました。1919年の開校後、革命的な教育法と教師陣の情熱で、瞬く間にその名を世界に知られる存在となりましたが、時代の動乱に巻き込まれ、徐々に存続が危ぶまれていきます。後編では、閉校までの経緯とその後を見ていきましょう。


Illustration:豊島宙
Text:浅野靖菜

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2020.08.19

バウハウス(1919-1933)

ドイツ、ヴァイマールにて同地の工芸学校と美術大学の合併により、国立の造形学校として設立。建築を中心に芸術と技術の新たな統合を目指し、科学や工業の発達した時代にふさわしい、それまでのアカデミーに替わる新しい造形教育を実践した。既成概念にとらわれず、実社会に即した造形を生み出す思考法は、モダニズムの基礎を作り、のちのデザインアートのあり方に影響を与えた。


社会に貢献するデザイン

世界から1万5000人の来場者を集めた1923年の成果発表会で、グロピウスは「芸術と技術―新しい統一」を掲げ、工業デザインへ本格的に舵を切る。1928年より2代目校長となったハンネス・マイヤー(1889-1954 スイス生れ)は、低賃金の労働者に向け、安価に流通可能な工業デザインを追求し、外部企業との協力により工房作品の量産を実現させた。マイヤー主導のバウハウスは学生の収入機会を向上させるなど実りも多かったが、政治的な思想を強く打ち出した彼は、国立学校として中立であるべきとするグロピウスとも衝突し、1930年にデッサウ市当局から解任される。

バウハウスの終焉

3代目校長のミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969 ドイツ生れ)の時には、世界恐慌もあって経済的理由から規模を縮小せざるをえなくなった。さらに国際性豊かで前衛的な表現活動が行われていたバウハウスは、民族主義を掲げ、保守的な芸術観を持つナチスから、度重なる干渉に合っていた。デッサウ、ベルリンと場所や運営体制を変えて継続していたものの、1933年にとうとう閉鎖に追い込まれる。再開条件としてカンディンスキーとヒルベルザイマーの解雇を提示されるも同意せず、教師陣の満場一致でバウハウスは解散した。それはヴァイマール共和国の崩壊と同じ年であった。

バウハウスの思想は世界へ

世界中から留学生を受け入れていたバウハウス。日本からも山脇巌・道子夫妻、水谷武彦、大野玉枝の4人が留学している。様式を模倣するだけの建築に疑問を抱いていた巌は、建築以前にある基本的な造形教育の必要性を実感し、帰国後は講演会や論文でバウハウスを紹介した。道子も織物工房で実験的な学びを得て、従来の織物からテキスタイル・デザインの概念を創始した。

バウハウス閉校後、教師陣の多くは、ナチス政権下のドイツから亡命し、欧州各地や北米に散らばっていった。モホイ=ナジはシカゴでニュー・バウハウスを設立し、アメリカのデザイン教育にもバウハウスの足跡を残すなど、その理念はかつての教師陣や学生によって世界中に受け継がれている。

<完>

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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