そして、2020年7月に、長谷川町子美術館の向かい側に建てられたのが、分館の長谷川町子記念館です。地上2階の建物に、2つの常設展示室と企画展示室、ショップ(購買部)やカフェ(喫茶部)があります。

長谷川町子美術館(本館)の道路を挟んだ向かい側に建てられた長谷川町子記念館
1階の常設展示室「町子の作品」は、町子の三大作『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』を中心にその作品を紹介する部屋です。大きな見所は、最新技術によって作品世界が楽しめるところ。原作のデジタルアーカイブを自由に閲覧できるほか、インタラクティブな仕掛けで遊べる落書きなどで『サザエさん』の世界を体験できます。奥にあるコーナーでは、町子の貴重な絵本や塗り絵が閲覧でき、塗り絵の体験も。

常設展示室では人気キャラクターたちがお出迎え(左)。カツオが落書きをしていた板塀に、デジタルで落書きができる(右)

原画のデジタルアーカイブ。ところどころ切り貼りされているものもあるが(左)、新聞や雑誌の連載用に描いたものから、単行本にする際にコマの幅を広げるために、細かな作業をしていたことがよくわかる
もう一つの常設展示室「町子の生涯」は2階です。ここでは誕生から72歳で亡くなるまでの町子の人となりや仕事を伝える、貴重な資料が展示されています。長谷川町子はなぜ漫画家になったのか、またどのような思いで作品をつくっていたのか。相澤さんの解説で、見ていきます。
「佐賀県で生まれた町子さんは、2、3歳の頃に福岡県に引っ越しました。両親と姉と妹の5人家族。父親が事業で成功したため裕福な家庭に育ちました。少女の頃から絵も得意で、おてんばだったそうです。そうした生活が一変するのは13歳のとき。父親が他界し、親戚を頼って一家で上京します。なんとか娘たちを一人前にしようとした母親は、ある日「田河水泡(たがわすいほう)先生のお弟子になりたい」と呟いた町子の言葉を聞いて、娘の背中を押します。町子は自分の描いたスケッチを持って田河先生に会いに行き、弟子入りを志願しました。『のらくろ』のヒットで人気作家だった田河先生への弟子入り志願者が多くいたなかでも、町子は認められ、学校に通いながら田河先生の仕事を手伝いました」
そうして1年ほど経った1935年、町子15歳の時に、「狸の面」で漫画家デビューします。その貴重なデビュー作をはじめ、少女の頃に描いた絵のスケッチブックなども展示されていました。

常設展示室「町子の生涯」
そこから『サザエさん』がスタートしたのは、終戦の翌年、1946年。町子が26歳のときでした。疎開で福岡にいた町子に、新たに創刊される新聞『夕刊フクニチ』への連載の話があったのがきっかけです。町子は自宅前の海岸で『サザエさん』の構想を練ったため、登場人物がすべて海の生き物になったと後に語っています。

初期の『サザエさん』原画。終戦直後の生活が描かれている
その後、三姉妹で姉妹社という出版社を立ち上げ、『サザエさん』の単行本を出版。『エプロンおばさん』や『いじわるばあさん』を週刊誌へ連載し、『サザエさん』の人気とともに活動を広げていきます。
「新聞連載は子供から大人まで見るので題材に悩むこともありましたが、週刊誌連載は気楽に書描けた、と町子さんは語っていたそうです」と相澤さん。ヒット作の裏側では大きな苦悩もあったようです。漫画を描きすぎて嫌になってしまい、1年ほど筆をとらなかったことも。その時期に制作した陶芸作品も展示されています。生涯アシスタントを取らなかったという町子。その膨大な仕事量と自身の作品へのこだわりや情熱がうかがえます。

長谷川町子の陶芸作品
2階には企画展示室もあり、あらゆるテーマで町子の作品や画業を紹介しています。開館第一弾の展示は、創作過程を追った「長谷川町子の漫画創作秘話」(2020年7月11日〔土〕〜9月27日〔日〕)、第二弾は「漫画原画にみる1964東京五輪」(2020年10月10日〔土〕〜2021年1月11日〔月・祝〕)です。
町子の作品や生涯を通して、多くの人に愛される作品を生み出す技術や情熱、そして町子誕生から現在に至るこの100年がどんなものであったのか、その一端を知ることのできる場所となっています。


喫茶部ではコーヒー(上)のほか、町子が好んで口にしたエピソードから着想を得たほうじ茶やドライパパイヤ(右下)なども。注文すると、番号札の代わりにキャラクターのカードを渡される(左下)

長谷川町子美術館学芸員・広報の相澤弘子さん
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