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アルベルト・ジャコメッティ〈後編〉

アーティスト解体新書

No.011

20世紀を代表する彫刻家、アルベルト・ジャコメッティの生涯をたどる[後編]。虚飾を取り去り、人間の本質に迫ろうとしたジャコメッティの制作は、常に苦痛をともなうものでした。また、彼の創作に多大な刺激を与えた人物として、日本人哲学者の矢内原伊作の存在も知られています。


イラスト:豊島宙
構成・文:TAN編集部(合田真子)

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2017.01.11

アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)

スイス南東部、アルプスの小村ボルゴノーヴォに生まれ、5歳から隣村のスタンパで育つ。1925年頃より、パリで彫刻を中心に作品を発表し始める。抽象彫刻を経たのち、細長い独自の人物像のスタイルに到達した。


対象の単なる描写ではなく、周囲の空気までをも取り込んで再現しようとしたジャコメッティの制作は、作っては壊す終わりの見えない闘い。モデルにはその制作に伴走する理解と忍耐が求められ、弟や妻、友人など少数の人びとがそれに応えた。なかでも重要な一人が、1955年からパリに留学していた哲学者の矢内原伊作(1918-1989)である。端正な容姿のみならず、豊かな教養と芸術的感性を備えた矢内原は、創作のパートナーとしてジャコメッティに熱望され、モデルを務めた日数は5年間で合計230日にも及んだ。

ジャコメッティが20歳頃のこと、旅の途中で知り合った老人が、その夜に宿で急死してしまった。もともと父母の影響で質素を旨として育ったことに加え、この事件で人の儚さに衝撃を受けたジャコメッティは、以降、ものを所有することを恐れるようになり、身の回りのことに無頓着を貫いた。名声を得たのちも、1926年に借りたモンパルナスの狭く粗末なアトリエ兼住居に終生住み続け、汚れた服と粘土の詰まった爪でカフェや劇場に出向いては、浮浪者と間違われることもしばしばだったという。

晩年のジャコメッティは胃癌を抱えながらも、彫刻のほか、版画や油彩などにいよいよ旺盛に取り組んだ。どんなに大きな注文が舞い込もうとも、常に新たなテーマに全力で挑み、疲れ果てるまで作り続ける制作のペースは変わらなかったが、ついに1965年末に体調をくずし、故郷のスタンパ近くの病院に入院、翌1966年1月に死去。モンパルナスのアトリエには、アメリカのチェース・マンハッタン銀行からの依頼で制作された複数の大作ほか、いくつもの未完作品が今にも作業が再開されそうな様子で残されていた。最後まで芸術一筋に駆け抜けた生涯だった。<完>

監修:国立新美術館

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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