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横山大観〈前編〉

アーティスト解体新書

No.015

近代日本画の巨匠、横山大観は明治の始まりとともに生まれ、明治、大正、昭和を通して、伝統と独創のはざまで常に新しい絵画表現を獲得するべく奮闘し続けました。2018年は生誕150年を記念する展覧会も目白押しです。


Illustration:豊島宙
Text:合田真子

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2017.01.15

横山大観(よこやま・たいかん 1868-1958)

明治元年、常陸国水戸(現・茨城県水戸市)に生まれる。古典に学びながら時代に即した画題や表現を追究し、独自の絵画世界を確立した。代表作に《無我》《瀟湘八景》《生々流転》《霊峰飛鶴》など多数。昭和12年(1937)、第1回文化勲章を受章した。2017年10月、105年ものあいだ行方不明となっていた《白衣観音》(1908年)が発見されたことを東京国立近代美術館が発表し、話題となった。


幕藩時代より測量と地図制作を生業としていた大観の祖父と父は、大観に工科系の道へ進むことを望み、成績優秀だった大観もそれにこたえ、建築の道を目指していた。しかし、東京大学予備門と同大学付属英語専修科の2校を規約違反と知らずに同時受験、どちらも無効となってしまう。自暴自棄となり、とりあえず私立の英語学校で学んでいた大観の耳に、官立の美術家養成機関、東京美術学校創立の話が聞こえてくる。画家となる道に心を動かされた大観は、このとき初めて日本画の筆を握り、再度の受験に挑戦。明治22年(1889)、晴れて同校の第1回生となった。

大観の生涯を通じての精神的指針となったのが、東京美術学校初代校長の岡倉天心(1863-1913)。鋭い美意識の反面、放埒な言動で敵も多く、明治31年(1898)に校長職を追われると、すでに同校助教授職などにあった大観ら十数名も退職。同年秋に美術団体《日本美術院》を設立し、新時代の美術表現に乗り出した。しかし経営難などで院の活動は徐々に縮小、明治39年(1906)大観を含むわずか5名となった同院絵画部は、茨城県の寒村・五浦(いづら:現・北茨城市)に移転する。この苦難の時期は約7年続いたが、大観らは、天心とともに新しい時代の到来を信じて制作に取り組み続けた。

大観は酒豪として知られていた。三度の食事は、酒と少々のつまみが中心。最盛期の酒量は1日に1升といわれたが、晩年は4合程となり、それを「健康を考えて」湯で割って飲んでいた。ツワブキの葉など、体にいいと聞くと毎日食卓にあげるほど健康に気を使う一方で、酒はやめないことを指摘されると「自分に酒をやめろというのは絵を描くなということ」と言ったという。しかしそれでも、酒気が抜けるまでは決して絵筆を取らなかった。昭和31年(1956)、一時重体になりながらも酒を吸口から一口飲むと回復し、その2年後、89歳の天寿を全うするまで、さらに数十点の絵を描いた。

<後編に続く>

監修:横山大観記念館

横山大観記念館

所在地:東京都台東区池之端1-4-24
電話:03-3821-1017
開館時間:10時~16時
休館日:月~水曜日(祝日の場合は開館の場合有)、夏季・冬季休館

http://taikan.tokyo/index.html

豊島宙(とよしま・そら)

イラストレーター。1980年茨城県生まれ。パレットクラブスクール卒業。

国内外問わず、雑誌、広告、WEB、アパレルを中心に活動中。サッカー関連のイラストレーション、メンズファッションイラストレーション、似顔絵を得意とする。

http://soratoyoshima.net

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