日米で過ごした幼少期
1904年ロサンゼルスで、レオニー・ギルモアの私生児として生まれたイサム。父の野口米次郎はアメリカで知られた詩人だったが、誕生したときにはすでに帰国していた。2歳で来日するものの母子家庭となり、生活苦が続くなかイジメにも遭った。しかし逆境にあっても、茅ヶ崎での暮らしはイサムの創造性を育んだ。「自然への意識が鋭敏な日本で幼少期を過せたことは良かった」と後にイサムは述懐している。母の勧めで家の庭づくりを任されると、バラやパンジーを選んで植え、近くの大きな石を移動して据えた。はじめての庭づくりに少年イサムは夢中になった。
パリ留学、ブランクーシ
13歳で渡米後、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校で早くから彫刻家としての才能が開花した。奨学金を得てパリに向かった22歳のイサムは、「抽象彫刻の巨人」と呼ばれたコンスタンティン・ブランクーシの工房を訪ねる機会を得る。工房は壁もテーブルもストーブも白一色。ブランクーシも白い衣装をまとい、白髪、白ヒゲ。飼っている2匹の犬も白だった! その透徹した美意識に感銘を受けたイサムは弟子入りを望む。ブランクーシは弟子をとらないことで有名だったが、なんとか「助手」として雇われることに。好奇心いっぱいのイサムはパリで(素敵なパリジェンヌたちにも気を取られながら)石と格闘する日々を過ごし、ブランクーシの方法と思想、モダニズムを学んでいった。
第2次世界大戦で日系人収容所へ
1941年、日本とアメリカ、父の国と母の国が戦争をはじめた。開戦の翌年、日系人の強制収容が大統領令によって決定されると、ニューヨークに住んでいたイサムは周囲の反対を押し切って自発的に強制収容所に入所した。40度を超す暑さと水不足、たびたび砂嵐にも見舞われるような過酷な環境にもかかわらず、イサムは遊園地や野球場などのレクリエーション区をデザインして次々と提案。しかし半分は日本人、半分はアメリカ人という立場に周囲の目は冷たく、開発企画の協力は得られない。戦争がおわるとイサムは「日本のためにできることはないか」と広島を訪ねた。原爆慰霊碑の制作を引き受け、家形埴輪の屋根に着想を得たデザインをつくるものの、アメリカ人ではなく、日本人の手でつくりたいという声が挙がったため不採用に。自分はふたつの国のどちらに属するのか……、その出自がイサムを苦しめた。
<後編に続く>