バウハウス誕生
第一次世界大戦に敗れたドイツでは、帝政崩壊後、1919年に当時最も民主的であったヴァイマール憲法が採択され、ヴァイマール共和国が成立する。時を同じくして、工芸教育の改革政策の一つとして国立バウハウスは誕生した。
初代校長のヴァルター・グロピウス(1883-1969 ドイツ生れ)は、「すべての造形活動の最終目標は建築である」という宣言のもと、芸術と手工芸の各分野の総合を目指した。基礎教育を経て各種工房に分化するカリキュラムにて、造形教育を刷新し、工業に基礎付けられた近代社会に目を向けた造形活動を行う芸術家の育成を図った。建築家でもあったグロピウスは、この新しい学校をbau(建築)とhaus(家)を組み合わせた造語でBAUHAUSと命名、デッサウ移転後の校舎の設計も手掛けている。
様式からの脱却
バウハウスの最大の特徴は、過去の装飾様式にとらわれず一から造形を生み出すための基礎教育だ。その提案者であり初期のバウハウスを教師として支えたのが、ヨハネス・イッテン(1888-1967 スイス生れ)だった。デッサンの授業では、アザミやサボテンなどを触らせて、その記憶だけで描写させるなど、身体性を重視した。1923年からはイッテンに代わり、ラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946 ハンガリー生れ)が中心人物となる。彼はイッテンの手法を発展させ、様々な素材を用い、加工による触感の変化をグラフ化させた。この科学的な視点の導入は、芸術と工業を結び付けるには重要だったと言えよう。
ユニークな教師陣
バウハウスには時代を代表する芸術家が世界中から招聘され、現代でも著名な画家パウル・クレー(1879-1940 スイス生れ)やヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944 ロシア生れ)も指導者として参加した。クレーの授業は、正解を限定せずにあらゆる可能性を示唆した。一方、理論派のカンディンスキーは、無造作に物を積み上げ、その簡潔な構成を導き出す「分析的デッサン」を行なっている。「総合芸術」の実現を夢見るカンディンスキーは、バウハウスの理念に共感し、グロピウス退任後の1928年から閉校の時まで校長代理を務めた。
<後編に続く>