大正8年(1919)、田河は兵役となる。幼少期から絵描きを志し、型にはめられることも苦手だったため、入営後の身上書に「芸術家は軍隊生活になじめないので、病気でもして兵役免除になりたい」と、つい正直に書いてしまった。約1年後、朝鮮の連隊に配属されてすぐ上官に呼び出され、ドキドキしながら赴くと「お前は上等兵候補に上がっているが、あまりそういうことを好んでいないようだ。他の者に譲ってやらんか」。迷わず承諾した田河は、軍用鳩研究班に配属、残りの任期の約1年をここで過ごした。鳩の世話が中心で、隙を見てスケッチもできたという、何とものんびりした軍隊経験が、後年の『のらくろ』の下地となった。
除隊後の田河は日本美術学校図案科に入学、グラフィックデザインを学びながら、同時にキュビスムなどの前衛美術運動にも共鳴、大正12年(1923)、美術団体「MAVO(マヴォ)」に参加して抽象画を制作した。卒業後は細々と広告デザインなどの仕事をするが、生活のために娯楽雑誌『面白倶楽部』の読み物ページで、落語の台本を手掛けはじめる。幼い頃から寄席に通っていた体験と、生来の軽妙なユーモアが活きた原稿は好評を博し、田河はまず落語作家「高澤路亭(たかざわろてい)」として売れっ子に。この時期に書かれた「猫と金魚」は、現代でも寄席で掛けられ続けている、新作落語の名品である。
『面白倶楽部』編集長に「これだけ面白い話が書けるのだし、もとは絵描きだというのだから、漫画を描いては」ともちかけられ、田河は漫画の分野に乗り出す。昭和6年(1931)『のらくろ』連載開始。ドジな野良犬黒吉、通称のらくろが猛犬連隊に入隊、騒ぎをくり広げながらも手柄を立てていく姿は次第に評判を呼び、全国的なブームとなる。当初は田河自身の経験通り、2年ほどで満期除隊、連載終了の予定だった。しかし押し寄せるファンレターの洪水に執筆は延長を重ね、昭和55年末、のらくろの幸せな結婚で大団円を迎えた『のらくろ喫茶店』まで、実に50年にわたって描き続けられたのだった。<完>
会期:2018年1月4日(木)〜14日(日) 会場:江東区森下文化センター 1階 展示ロビー
日時:2018年1月14日(日)14時〜16時 会場:江東区森下文化センター 2階 多目的ホール(入場無料)